ダイハツの時からそうだが、こうした生産停止に一体どういう意味があるのか。もちろん、安全性に対して問題があれば、企業は改善するのは当然のことだが、そんなもの走りながらやるべきものであり、いちいち立ち止まって鬼の首を捕まえたような国交省のパフォーマンスには辟易する。トヨタとビッグモーターでは問題の設定も解法も何もかもが次元が異なる。ダイハツの掲げるイーステクノロジーは、様々な矛盾を抱えているのは確かだが、そのプラットフォームにより、低コストで短い開発期間により、ミライースという良質な「作品」が誕生しているのも事実である。そもそも他に一体どのような方法で、デザインという概念の存在しない、この国の自動車産業が世界で生き残ることができるのか。このままだと、この国の自動車メーカーは、既存技術の徹底した再利用と労働者の酷使によるイーステクノロジーで、倒れるまでタントやn-boxを作り続けるしか生きる道はない。国交省は企業を追い詰めるのではなく、ドラスティックなゲームチェンジをイニシアチブ発議し、新たなプラットフォームを創造することが与えられた使命である。決して軽自動車が悪いということではなく、グローバルならグローバル、ガラパゴスならガラパゴス、世界を意識せず、国内市場だけを見れば、「自動車」に焦点化した、過度な安全性幻想よりも、また、自動運転よりもマニュアルミッション車の運転教習、交通ルールやマナー意識の向上のため指導や罰則強化、自転車や電動キックボードの走行レーンの充実などの交通インフラ、地方や過疎地におけるライドシェアの充実などの、重層的な幾何ジオメトリックによる論理の秩序を構築することにより、未来の自動車、あるいはヴィークルという概念をドラスティックに見直すことが必要である。もちろんそれは大きなドローンを空飛ぶクルマなどと言う稚拙な詭弁ではなく、むしろ過去に立ち戻れば、今の子どもたち、若者たちが「所有」したいと思うユニークなヴィークルが多く存在する。国の助成により、若者が50万円くらいの価格で手にすることのできるヴィークル、モビリティ、トゥクトゥク、バタコバタバタ。それは若者世代にとって、スマホ以外の初めての「資産」となり、単なる移動手段ではなく、パーソナルな空間やオブジェとして、デザイン的な感性やメカに対する興味や意欲を醸成させるツールとして機能する。そうしたアートやデザイン、そしてメカを実践的に学習した子どもたちは、大人になって素晴らしい未来の「ヴィークル」を創造することができる。個性的なデザインに触れ合うことで個性や感性を養われていく。一方でタントやn-boxで育った子どもたちは、やはり大きくなって、芸大や専門学校でデザインを習っても、タントやn-boxと同じようなものしか創造できない。