女性の芸術

 

 

 

女性は、女性に対しても女性であるべき。

女性のための、一体どのような女性を中心とする社会を

形成するのか、女性による最も原初的な議論が必要

 

 

当時の古い法律とはいえ、考え方の根底に「差別」があったのは事実だが、今現在においてもその差別は全て解消されているわけではない。未来から先回りすればやはり、現在の司法判断は、やはり古い法律ということになる。もちろん、法治国家である以上、最高裁の判断は尊重すべきだが、これは決して法的マターではなく、人類の未来において、根源的な命の尊厳に関わる問題であり、大きな幾何の中で、「女性」たちの力により普遍的な帰結を得なければならない。このような命の尊厳に関わる最重要な命題に、男性が関わる論理の秩序がそもそも間違っている。

 

法に人生を狂わされた原告らの叫びに、司法がいかなる判断を下そうが、この国の人間の意識が変わらない限り、原告たちが救われることはない。解決できる苦しみと関わることは、努力をすれば成果が得られるが、不条理な苦しみは、どれほど心を込めて関わったとしても、残り続ける。力になれるから関わることができるが、力になれない人間は、関わることを拒否してしまう。もちろん、原告のすべての苦しみを解決できる万能な答えは誰も持ち合わせていない。しかし、この問題は女性による最も根源的で、原初的な議論が必要になる。

 

子どもを産むか産まないか、そもそも誰を好きになるか、結婚するかしないかというのは、女性が決めることであり、選択することである。男性(オス)はセックスができればそれでいい。それが動物のデフォルトであり、性と生殖に関する健康・権利(SRHR)である。これを侵しているのが優生保護法だった。上から目線で、こういう人間は増やして、こういう人間は減らすと決めつけ、そのために、女性の身体を使ってコントロールする――この人口政策は、優生保護法が母体保護法に変わっても、堕胎罪とともに続いている。男性に女性の月経の苦悩などのわかるはずがない。産むか産まないかを女性が決められる社会を実現しなければ、優生保護法問題は解決しない。

 

 

 

障害者の芸術

 

 

「障害者って、生きてる価値はあるんでしょうか?」という問いに対して、「そういうことを口にする人間に逆に聞いてみたい。

『あなたこそ生きている価値はあるのか?』と。

 

個人的にはジャニーズやジャニーズファンは生きる価値などないと思っているが、だからといって、法治社会においては、例え大勢の子どもたち未来を奪った人間を庇い、その事実の隠蔽に加担したジャニーズやジャニーズファンにも生きる権利はある。

いや、ジャニーズファンは、自分たちと障害者を同列に扱うなと思っているだろうが、同じだよ。ジャニーズファンは「心の障害者」である。確かにジャニーズファンは健康だし、一生懸命働いて、ちゃんと税金を払っている。ジャニー喜多川はアイドルの発掘や育成の天才、多くの人間にと夢を与えたかも知れないが、だからといって子どもたちに対する人権の蹂躙を見過ごしていいということにはならない。

 

それが果たして他人を納得させられる価値と言えるのか。ジャニーズがなくなれば生きる意味を見いだせないような、「くだらない」人間が集まって「くだらない社会」を形成している。

この国では、障害者を「生きる価値がないと決めつけ、排除する」。しかし、

そもそも、生きる価値のある人間など存在しないし、多くの人は、自分に生きる価値があるかなど普段考えもせず生活している。なぜことさらに障害者だけ、生きる価値を問われなくてはならないのか。

 

生きるということは壊れることである。あらゆる物象は、最初から壊れているか、途中で壊れるかしかない。落とせば割れるし、ぶつかれば傷がつく。そして最後は大地に還る。それでも自分は決して壊れないと言いはるなら、もはや人間じゃない、それはプラスチックである。

たいてい人間は、自分だけは例外であるかのように、他人のことをとやかく言うが、もともと「障害者」と「健常者」という言葉の間には、明確に線引きできるような境界線があるわけではない。私のバイクがトラックと衝突し、病院のベッドで目が覚めたら一瞬で障害者になっていた。まわりを見渡しても、障害者なのか健常者なのかよく分からない人間が、そこかしこにあふれているのが現代の日本社会なのである。障害と健常は、本来ひとつながりであり、人間にとって表と裏、光と影という側面を持っている。

 

  • 強制不妊手術は時代背景を考えるとやむを得なかった
  • 今の価値観で昔の法律を批判するのは無理がある

 

こうした主張は実に退屈だ。私たちはこれから、どんなことを解決していく必要があるのだろうか。ひとつは、私たち自身がどういう社会で生きていきたいのか、ということだ。何かができないとか、能率が悪いとか、遅いとか、障害があるとか、病気があるとか、人と違うとか、そうした人は価値がないと差別される――それが優生保護法だった。しかし、そういった生きづらさや困難を抱えている人たちは、周囲の助け、支える制度など、合理的な配慮があれば、日常を営めるかもしれない。何かが「できない」人たちには生きる価値がないと決めつけ、排除する社会は怖いし、私はそういう世の中で、そして、そういうジャニーズファンとは同じ空気を吸いたくはない。誰でも苦手なことがあるし、歳をとればできないことが増えていく。そして、人間は誰でも間違いを犯す。たとえ、アイドルの発掘や育成の天才であったとしても、間違いを犯せばその罪を償わなわなければならない。事実を捻じ曲げ、隠蔽するようなことは人間として最も恥ずべき行為だと言える。

 

 

 

女性は、女性に対しても女性であるべき。

 

 

周回遅れの「男女平等」ではなく、日本人、そして日本という国が、女性の人権において、トップランナーになることは決して悪いことではない。


 

重い障害と軽い障害、重い月経と、軽い月経、そして、出産する女性と出産しない女性。命に完全も不完全もない。いや、全ての命は不完全であり、

だからこそ全ての命は尊い。

 

 

完全な人間が世界の代表者ではない。すべての人間は完璧ではなく、人間 (生命)はヴァルネラブルな存在なのだろう。世界の代表者はそのような脆く、非力な生なのである。日本人にとって「差別」はヨリドコロである。日本人は「敵」を作らず「下」を作る。そのために「障害者」という不思議な存在を作り出す。そもそも、この国の当たり前のように使っている「障害者」とは一体何なんだ。「障害」というのは社会の側の問題であり、ヒューマンの側にあるのは「苦難」である。世界では「ヒューマンウイズ障害」が常識である。この国の人間にとって、ヒューマンとは、完全な身体や精神を持ったホムンクルスを指し、何か「欠損」があれば、不完全な「障害ヒューマン」として「下」に分類される。それが日本人の差別のヨリドコロになっている。

 

アメリカ人と日本人では「障害」に関する考え方が大きく違う。そもそも英語では障害者(disabled people)とは言わない。障害を持つ人、障害と共に生きる人(people with disabilities)という言い方をする。子どもの場合は、障害児(disabled children)とは言わず、特別なニーズのある子ども(children with special needs)と呼ぶのが一般的だ。あくまでも「ヒューマン」に焦点を当て、私たちにはヒューマンとして同じ権利があることを強調する。

 

この問題は「障害者」がどうとか、「差別」がどうとか、、そんな矮小化された問題ではなく、「女性」を中心とした、命の意味と尊厳の関わる問題である。この国は万物の命の尊厳や人権において、一体どこまで手にすることができるのか。そのためには、一体どのようにして、女性を中心とする社会を構築するのか。

女性による最も原初的な議論が必要。男性がもっともらしい顔で議論に参加しても、何の意味も持たない。男性はただセックスをしたいだけ。障害者の出産権や子どもの権利や福祉は、子どもを生む産まないに関わらず、それは女性が決定すべき命題なのである。そして、男性やあらゆるジェンダーは、女性が望む生命社会を実現するために全力を尽くすしかない。「女性中心」ーそれが命に対する最も公平であり、平等のトポロジーだと言える。

 

しかし、その大前提となるのは女性が太陽であるかどうかである。残念ながらこの国では、原始女性は太陽ではなく、稲田朋美であり、ジャニーズファンである、このままの前提では、いくら議論を尽くしても、女性の未来遠点に光は見えない。女性は決して子どもを産む機械ではないが、産もうが産むまいが、月経からは逃れられない。だからこそ、このような女性の人権に関する問題を起きたときに、男女平等を前提とした議論はさらなるパラドクスを呼び起こす。「男女平等」という題目ではフェミニズムは必ず分裂する。女性が中心となる社会を「未来遠点」とする、アバウトな幾何の「圏」を示すことが必要であり、その覚悟と勇敢を掲げた女性が、一人でも出てこなければ、この国において、真のジェンダー平等など絵空物語で終わることになる。

ジャニーズ問題や、松本人志問題でも女性が声を上げることはできなければ、将来に大きな禍根を残すことになる。あなたたちの娘や孫たちに、「お母さん、おばあさんはどうしてあの時に声を上げてくれなかったの?」と言われたら、一体どのように答えるつもりなのか。社会における真の変化は一歩づつ起こるものだ。しかし、聞く耳を持たれずとも声を上げ続けなければならない。たとえあなたが生きているうちにそれが実現しなくても。少女たちは、いずれ女性であるという事実が意味をなさない時代に生きることになる。

それは決して女性を優遇しろとは言っているのではなく、女性たちの首を踏みつけているその足をどけろと言っている。それは、別に男性や社会に、「男女平等」だからとお願いしているんじゃない。女性たちが社会の中心となって、この国を導いていくから、その足をどけろと言っている。いずれ女性であるという事実が意味をなさない時代に生きることになる。必ずそうなる、なぜならそれが不可逆的な帰結であるからだ。

それが女性にとって、プラスであっても、マイナスであっても