何も変わらないのは日本である。被害者補償は被害者自身が勝ち取るべき命題であり、この国の人間のヒューマンライツが起動することと位相幾何が全く異なる。被害者団体がいくら頑張っても、マグカップはドーナツにはならない。つまり、この国の人間は「ジャニーズ犯罪」を見逃したということである。性加害者は極楽往生させ、隠蔽を貫いた事務所や所属古参タレントに対しての糾弾熱も冷め、キムタクは堂々とテレビドラマ主演に復帰している。そして、何よりもジャニーズファンたちは、相変わらずごきげんだ。日本という国は、何も動かないことが平和の証、大人の対応だ。そのくせ言うことだけは立派で美しい。日本では「人に迷惑をかけてはいけない」と教えられる。それは裏を返せば迷惑をかけられたら困るということでもある。世界では「人に迷惑をかけても、困った人を助けなさい」と個人主義を教える。もちろん、実行するしないは別だがそう教える。それがrightsという概念だからだ。

日本、あるいは日本人はここから間違っている。一体なぜ、この国がこんな「不寛容」なのか、誰も真剣に考えようとしない。どんどん「自由」のない息苦しい国になっていく。これを言ってはいけない、やってはいけない、人に迷惑をかけてはいけない。人を差別してはいけない、暴力を振るってはいけない。誰も困った人を助けなさいと教えない。そんな国や人間を世界は相手にしない。科学技術や経済のプレゼンスが凋落した時点でこの国は終わりだ。腹の底を隠し、ヘラヘラ、ニコニコ、おもてなし、しかし、その腹の底では、世界の難民や外国人、国内においても被災者や被害者など「困った人」を助ける気などサラサラない。人に迷惑さえかけなければ、子どもたちの「性被害」など関係ない。被害者がどうかもわからないし、自己責任だろ、被害者が多額の補償を得るなんて癪に障る、被害者はジャニーズに迷惑をかけるな。それがジャニーズファンの正体だ。ジャニーズファンの少年少女たちは、やがて大人になりやがて結婚して家族ができ、母となり自分の娘にジャニーズ愛のゲノムを伝承していく。

そして、「人様に迷惑をかけてはいけません」と立派な教育により、この国の子どもたちは、稲田朋美を見て、松本人志を見て、「迷惑をかけない」と言うことと「バレなければ」を同義として学習していくのである。つまり、コソコソ悪いこと、恥ずかしいことをする。とにかく自分さえよければいい、困った人を助けないのは大人の対応、これが日本人のデフォルトである。ジャニーズ、松本人志、稲田朋美、つばさの党の「基層」にある、この国の「不寛容」について、本気で向き合う事ができなければ、政権交代しようが、小池氏から蓮舫氏に変わろうが何の意味もない。

 

 

もちろん、僕たちは口先だけの評論家やコメンテーターではない。困っている人を助けるために、周りの迷惑や差別や暴力など全く厭わない。全ては自己の美意識による「表現の自由」である。僕たちは何を殺して、何を食べるのも「自由」だと思っているが、僕たちは決して「焼き肉」は食べない。牛の親子を殺して「焼き肉食べ放題」で、多くの子どもたちの人生を殺した「ジャニーズ」で大喜び、おおはしゃぎするような人間は徹底的に排除する没交渉だ。そんな気持ちの悪い人間と人生を共にする必要などまったくない。世界には素晴らしい子どもたちがいっぱいいる。もちろん、日本人にも多くいるはず。僕たちのパブリックでは、困った人がいれば君たちの方法で助けなさい、例えそれが周りに迷惑を及ぼしても責任を取るのが大人の仕事である。それが、「芸術」だ。僕たちが子どもたちに伝えるのはそれだけである。