この国の民主主義をトポロジー的に考えると、まずは自民党と立憲民主党、国民民主党による大連立が最も合理的である。立憲の岡田幹事長を見ていれば、もうそれしかない。無理に違いを出そうとしても、自民と立憲は同質の生態系を持つ政党であることは、岡田幹事長を見ればよくわかる。岡田氏はあろうことか、「草履」では勝負できないと、ついに「自白」してしまったのだから。つまり、一旦、この国の民主主義の「粘土」を一つの塊にして、第2自民の維新やれいわ新選組、社民党などの零細政党はこの位相から隔離する。この塊は粘土細工のカタチは変わっても位相幾何学的には同相ということになる。この国の民主主義においては、これらのミニ政党とは位相を分離しなければ、今後「つばさの党」が乱立することになる。オルタナティブな民主主義の「塊」は、大連立によるシン自民党と野党になる公明党と共産党の三極で「仲良く」この国の実現可能な未来について議論すればいい。議会の存在自体、地球や世界、日本という環境幾何のごく一部にすぎない。そもそもこのAIの時代に必要がないものなのである。国民が直接発議イニシアチブし、直接起動レファレンダムすれば、ほとんどのことは解決できるはず。

いちいち政党や議会を通したり、国会議員になる必要はない。議会や政府は、対外的な象徴にすぎずこんなもの町内会長と同じ、高齢者の名誉職のホムンクルスや人形、あるいは演者として規定すればいい。現在の日本の大きな政府で、格差社会というのはもはやジョークではすまない。新型コロナで露呈したのは、この国の政府は全く当てにならないということである。本来であれば、「全有権者」が選挙にいかないことで、この国の政党や議会を無効化するのが望ましいが、無理なら次世代のために「高齢者」は「選挙権」を放棄する、それも無理なら、少なくとも「ミニ政党」には投票しないということくらいの覚悟は持つべきである。こんなものいくら増えても、そもそも意味がない。とにかく、「0歳児選挙権」など、まるで小池氏の「希望の党」のような稚拙で、出来もしないことを言う人間は相手にしないことだ。「憲法改正」も「核武装」もこの国の人間には運用する力能も覚悟もない。いくら新しい憲法を作っても、この国の人間はその憲法を守らないし、またぞろ、新たな文句や変えない方がよかったなどと、不平不満をタラタラの繰り返すだけだ。他国では憲法は改良されるもの。それは改良されるべき「余地」があるということと、政府や国民がその責任を負うということを理解している。日本国憲法は、どこの国のどの憲法とも違う、「余地」のないこんな間抜けな憲法は、世界中どこにも存在しない。しかし、それがこの国の現在の「公理」だから仕方がない。少なくとも国民が自分たちの手で作ったものではなく、先の大戦での多くの先人たちの犠牲によって、与えられたものである。確かに「日本国憲法」は間抜けな憲法だが、「神」が宿ってしまっている。日本人はこの「日本国憲法」を手にした時の感動を忘れ、憲法の理念に背き、我欲に走り、記憶をごまかして、最後は歴史さえ捻じ曲げ憲法を悪者にして嘘までつく。どうしても、この憲法を変えたいのであれば、まずは自分たちの力で、民主主義を構築してからだ。ジャニーズの問題すら総括できないこの国の人間が一体何を騒いでいるのか。順番が違う。国家主権と国民主権はトポロジー位相幾何学で言えば「同相」である。日本人は「主権」の意味すらわからず、この国では国民はまるで「お客様」である。一方でヘラヘラ笑って頭を下げることがこの国の「おもてなし」とされている。世界の観光客から、日本人は親切で素晴らしいと言われて有頂天になっているが、相手の顔色を伺うだけで、対等な会話ができない。それが日本人の正体である。対等や人権という人間としての基本的な習律モーレスを持たない者が、「平等」などの応用問題を解けるはずがない。「日本国憲法」という稚拙な子ども憲法を何一つ履行せずに、「憲法改正」を唱えだす。平和とはヘラヘラ頭を下げることと捉え、上手く交渉できなければ憲法のせいにする。主権国家として対等な会談のできないよう国の政治家とまともに相手にする国など存在しない。アメリカと話をつけた方が手っ取り早い。

自民や立憲などと「政局」に明け暮れているのは政治家だけじゃない。国民有権者も同じこと。何十年もずっとこんなことを繰り返している。この国の議員は、自分たちの利益ばかりを求め、100年先、200年先のことを考えられない「国民の代表」である。国民が選んだお似合いの「はめあい」の関係だと言える。そもそも政党や候補者のこともよくわからないのに、よくもまあ投票できるものだ。自分たちが変わらないのに立派な政治家など生まれるはずがない。「有権者」は、大きな幾何でこの国の民主主義を創造しなければ、このまま同じことを繰り返していたら本当にまずいということに気づくべきである。