『女性が子どもを産む』ことを前提とした発言

 

 

『女性が子どもを産むこと』が生命活動の大前提である。そういう意味では、人類社会の未来遠点は、男女平等ではなく女性を中心に構成されるのが合理的だと言える。塩村氏のような書物の豆知識で論理の秩序を組み立てる人間は、「男女平等」を理想とするところから間違っている。「男女平等」は単なる通過点に過ぎず、もちろん点には大きさなど存在しない。そもそも、形も大きさも見えない「男女平等」の定理や定義を一体どのように証明するつもりなのか。

 

ゲームボーイは当時全盛期だったファミコン(1983年)より6年後にリリースされているのに「カラー」ではなく「モノクロ」だったのは、持ち歩いて遊ぶゲーム機であれば、当然、乾電池で動かなければならない。それも10時間とか20時間保たなければ、ゲーム機として役に立たない。もちろん、当時もカラー液晶テレビなんかもあったが、電池寿命が1時間程度のものであった。つまり、日本人というバッテリー蓄電力では、塩村氏の主張するフルカラーの女性論は続かないどころか起動さえしない。

 

NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)の主人公のモデルとなった女性裁判官—三淵嘉子氏は、戦前の民法の講義を聴いたときは、法律上の女性の地位があまりにも惨めなもので、じだんだを踏んでくやしがりました。それだけに、何の努力もしないで、新しくすばらしい民法ができることは夢のようだと評価しながらも、一方「あまりにも男女が平等であるために、女性にとって厳しい自覚と責任が要求されるだろう。はたして、現実の日本の女性が、それにこたえられるだろうか」と述べている。

 

もちろん、理想を描くこと自体を否定しているのではなく、この先の人類社会の未来遠点は『女性が子どもを産む』ことを前提とした小集落のパブリックがインテグリティにつながることで持続可能社会が成立することになる。これは決して難しい科学予想ではなく、そもそも動物(生物)の世界は、【メスを中心に(特に繁殖に関して)】構成されているのがデフォルトであり、一万年を超える未来永劫の生命活動の帰結である。つまり、塩村氏の主張する男女平等論は、ここ数百年あるいは千年程度の時間性における人類が辿る社会の「通過点」の話であり、それはトポロジー位相幾何学的に、目的や目標にすること自体、根本的にずれているとしか言いようがない。

 

生命運動がメスを中心に展開している以上、それを支える社会やパブリックは、女性が中心であることが最も合理的だと言える。これは正しいとかどうかではなく、「公理」なのである。「公理というのは単なる基本ルールであり、それが現実的かどうかは関係ない。「公理」がないのに、文脈的な「定理」や「定義」を導き出すことなど出来ない。 「公理」は現実的である必要はないが、その「完結性」と「無矛盾性」が必要である。

 

男女平等はその女性中心という「公理」の射影幾何における一瞬の通過点でしかない。そもそも点には大きさがない。姿かたちの見えない「平等」という定理や定義を一体どのように証明するのか。全く不思議でならない。塩村氏は思想的にも世代的にも、なんとか上川氏との違いを見せようと躍起になっているが、まったく、同じだよ。塩村氏のような人間の主張は、何の革新性も普遍性もない。書物からの豆知識を拾い出しているだけで、とにかく陳腐で古臭い。やっかいなのは、わたしたちと同じ反知性の側の人間のでありながら知性を装う、世代的にはすでに森元首相や二階氏、上川氏などの老害世代でありながら、若作りの演出で若者世代を装う。塩村氏のような人間は、あたかも知性があるように振る舞うという単細胞生物の粘菌と同じ“かしこい単細胞”と呼ぶに相応しい。