ここは普段何もないところです。それが今や観光スポットになっている

今さら、そんなことを言われても。何も無い離島にも、臨海の工場夜景や、廃村廃屋のあらゆる日常の生活風景や生産風景、あらゆる人間の日常のアイデンティティ/魅力が存在する。そもそも「おもてなし」なんていらないんだよ。そんな定型のマニュアルなどなくても、それが高齢者であろうと、障害者であろうと、子どもあろうと海外の人間は決して差別しない。差別するのは日本人だ。だからこそ「おもてなし」などと言い出す。海外では例え客であろうと対等な関係性がデフォルトである。日本全国にも、岩手盛岡や山口県などは、観光にさらされていないことが世界で評価されている。大阪でも歴代の創造できない首長たちが、学者や産業界に根強い「創造都市」論の亡霊をたたきこまれ、グッゲンハイムのハコモノづくりに懸命である。そもそも、大阪万博の夢洲は、大阪オリンピックというグッゲンハイムの負の遺産で、歴代の首長に損切りする勇敢がなく、一方で何とか自分の手で手柄を立てたいという野心で、次々とハコモノに挑戦する。あの橋下氏もあれだけ既存の無駄を整理しながら、万博カジノで全て台無しになってしまった。一方民間は、万博以上に、布施の世界ホテルは、お金をかけることなく観光名所となり、そのメソッドは日本全国に広がっていく。

 

そんなもの、ボリュームの観光客誘致なんて簡単なんだよ。そもそも、外国人は日本には「安い」からやってきている。観光名所なんて、何でもいいし、「おもてなし」など日本人の自己満足で、従業員が苦しむだけで何の意味もない。もちろん、それは僕たちも実証してみせるよ。僕たちがやろうとするのは、ターゲットセグメンテーションだ。つまり、客の差別だ。おっと、言い方が悪い。お客様の差別化である。今後この国も世界に倣って客のマナーコードで選別する時代がやってくる。一刻も早く「おもてなし」などという間違った差別化から脱却すべきである。主客は一体であり、対等である。それがデフォルトだ。その上で、生産者が中心となる対等な関係性の幾何を描くことが、カスタマーの暴走を抑えることで、謙虚な本来の顧客に対して真摯に向き合うことができる。トリバゴ理論で、情報強者やバーゲンハンターが有利になるようなやり方はやはり、顧客に対する裏切り行為である。生産者にはユーザーに割引や値引きなどの隙を与えない公正な価格施策を運営する責任がある。

 

つまり、名所があるとかないとか、そんなことは何の関係もない。日本中どこのどの店でオムライスを食べてもそこそこ美味しい。そして、どこの店の主人や従業員でも、別に「おもてなし」などしなくても、人柄もよく良心的である。僕たちの作るパブリックはHECP、人権、環境、共同、公共の4つのプロトコルの隅点から射影幾何を展開している。その形はどんどん変わり、現れたり、消えたりするも、その穴/理念は不変である。つまり、位相幾何学/トポロジーに展開されていく。現在は、和歌山県紀北の高野山の麓での展開を進めているが、高野山自体すでに世界的観光地でもあり、僕たちの女人高野においての女性人権の切り口と違うが数々の歴史的観光スポットも存在し、一定の観光客で賑わっているため、機会があればどこか別の場所で、こんな街になぜ世界から人が集まってくるのかという実証実験を行って見たいと思う。

 

その一つに、大阪府門真市がある。ここは全国でも珍しい、自然も観光名所も美しいものが何一つ存在しない街。街全体が昭和の文化住宅に溢れ、道は入り組んで行き止まりだらけで、再建築も再開発でもできず、駅前から空き家廃屋の長屋が連なっている。過去には人口密度が全国一位だった程に住宅密集のスラム疲弊地区である。市民も行政もあきらめムード、何をやるにも意欲が全く感じられない。住民サービスも介護も障害者福祉も体験的に隣接する寝屋川市や大東市などと比べてもその意識は決して高いとは言えない。しかし、そんな門真市には日本全国に誇れる、いや世界に誇れる物語一つある。それは、門真市は「日本国憲法」発祥の地なのである。正確に言えば幣原喜重郎の生誕の地であり、それは壮大なプロットを描くことができるということを意味する。

 

幣原喜重郎とはまさに「狂人」であり、世紀の「変人」である。あのマッカーサーを手玉にとり、あのマヌケでとんでもない「日本国憲法」を作り上げた人物だ。

 

憲法9条は、政治アーチスト「狂人」幣原首相によって生まれた、すばらしき「滑稽」!日本国憲法は「国民主権」、「平和主義」、「基本的人権」などの多視点を極端に推し進め、様々な角度から眺めた対象物を、二次元幾何に再構成している。そもそも、幣原は憲法発案においては、四苦八苦の上、平面画面に様々の視点からの「理想」の立体表現を試みた。それは従来の既成概念では理解し難い、子供が描く「キュビズム」のように「滑稽」だが、壮大な「ビッグピクチャー」だったのだ。また、憲法9条は、内容だけではなく、その成立プロセスについても高度な仕掛けが駆使された、深謀遠慮の「トリックアート」でもあるとも言える 。 

 

憲法前文でも、「主権が国民に存する」と国民主権が述べられているが、「国民主権」と「国家主権」は、完全に別物ではなく、実際は、同じ一つの概念の「内側」と「外側」といった関係で「存在」している。平和主義」や「基本的人権」についても同様で、憲法9条はアメリカから押し付けられたという説もあるが、幣原がマッカーサーを欺しきったのである。幣原のすごさは、マッカーサーだけではない、米側、日本側双方の憲法改正にたずさわった人々、さらには後世の日本人一同も欺しきったというところにある。幣原は憲法9条の「滑稽」さを十二分に理解していたばかりか、まさにその「滑稽」さを日本の武力にしようとした。

 

日本国憲法は、人類社会が追い求める理想のゴールであり、憲法前文後段にも、「人類普遍の原理」であって「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」となっている。理想に背く内容であれば、改正に向けてのコンセンサスは得やすいが、変えようがないから、事態が厄介で問題が複雑化してしまっている。つまり、憲法条文の言葉の問題ではなく、日本人の生き方そのものが問われていることを認識しなければならない。ここに来て今さら、憲法9条の持つその「滑稽」さについて、いくら議論を繰り返しても意味が無く、公理が現実的かどうかは関係なく、公理というのは単なる基本ルールであり、それが現実的かどうかは関係がない。そもそも「公理」がないのに、文脈的な「定理」や「定義」を導き出すことなど出来きないのである。 

 

改憲派が主張する「集団的自衛権」や「積極的平和主義」という「命題」に対して、憲法9条にとっての「水平力」(中立力)とは一体何なのか。中立で一番に最初に思い浮かべるのは、永世中立のスイスという国家である。スイスは単に「戦争に巻き込まれたくない」という意識から中立を是としているのではなく、まず「中立を守る」という思想を是とし、そのためならば戦うことも厭わない覚悟がスイスにはあり、残念ながら日本人の多くは、単に「戦争に巻込まれたくない」という意識の上に成り立っているのが現実である。国土を焼き尽くしてでも、外からの侵略や攻撃とは闘い抜くという、スイスという国家が持っている覚悟との圧倒的な違いである。この国のジャーナリズムは目の前で一千人に迫る多くの子供たちの人権が蹂躙を目の当たりにしても、戦おうとはしない。ジャニーズのことだ。幣原は「軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうするのか。それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。敵が口実をつけて侵略した場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。」と述べている。

 

幣原は憲法9条の理念について、「非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。」とも述べている。そして、「要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができない。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。」と自身の言葉を締めくくっている。保守であれ、リベラルであれ、ヒューマンを守るために戦うのは当然であり、国連憲章では、そのグローバルに戦う権利を「ヒューマンライツ」と呼んでいる。

 

この国においては、戦わない人間が、「日本国憲法」をノーベル賞平和賞にと嘆願したが、もちろん一笑に付されている。今の日本といういう国にとって「憲法」はサイズの合わない流行のファッションのようなものである。ブクブク太った体型に、無理やり身につけている姿は本当に醜い、世界の嘲笑の的になるのは当然である。バイデンまで日本人を嫌っている。そもそもジャニーズ問題では、未成年の少年に対する連続レイプに対してヒューマンライツが全く起動しないのに「平和憲法」など真顔で主張する厚顔無恥には笑われて当然である。新しいファッションに着替えるか、サイズに合った体型にシェイプアップするかの議論が必要になってくる。この国の人間の論理が根本的に狂っているのは、「憲法」とは手段ではなく、そもそも目的である。憲法を改正するしないの「前提」として、憲法という存在は、その国の人々にとって美しいものであるはず。

 

それは大切なもの、守るものというか、

きれいな水が湧き出ている場所

わたしたちはきれいな水に変な色を混ぜられたり

汚されたりしないように守らなきゃいけない

きれいな水を正しい場所に導かねばならない。

 

それは本来政治やジャーナリズムの使命である。

 

だが、この国はこの「日本国憲法」を汚したジャニーズを排除し、

汚れた水をきれいに浄化しようとはしない。

 

ジャニー喜多川だけじゃない、事務所やタレント、ファンも同罪である。このような汚い塊が残り続けているのに、新しい水に入れ替えてもすぐに汚れるだけで何の意味もない。僕たちがやるべきことは、ジャニーズや松本人志を知らない未来の世代のために種を撒くことである。ジャニーズファンや松本人志擁護の世代は、もうどうにもならない。このジャニーズや松本人志の世代は麻生氏や二階氏などの女性やジェンダー差別の老害世代よりたちが悪い。そして、よりやっかいなのが、自分たちが何か旧世代よりは進歩的な意識を持ち合わせていると勘違いしている。それは意識じゃなくって、単なる書物の豆知識だろ。女性に対する差別やセクハラパワハラの次元ではなく、未成年の少年や女性に対する猟奇的な性行為に対して何の違和感を持たず、その犯罪を隠蔽し続けるタレントやアイドルを応援しづけるという人間など気持ちが悪いにもほどがある。キャスティングカウチやグルーミングによるアプローチ自体決して悪いとは思わない。問題は相手が「子ども」であったということである。ジャニー喜多川は子どもとセックスした。全く性の意識や経験のない子ども対して「アナル/肛門」セックスを繰り返してきたのである。世界のZ世代は、パレスチナやウクライナ、人工中絶、ブラックライブズマター、MeeTooなど声を上げはじめている。もちろん、日本でも立ち上がる若者世代も多くいるが、ジャニーズファンが壁になり、どうにもならない。世界で起きていることと、ジャニーズ問題における子どもに対する人権侵害をインテグリティに展開できない運動など全く信用できない。そもそも子どもに対する重篤な人権侵害に対してヒューマンライツが起動しない国の人間と世界が連帯するはずがない。今は何をやっても無駄。次の世代にバトンを渡す未来遠点の幾何を描くことが合理的である。いくらきれいな水に変えてもジャニーズファンがその水を汚してしまう。やっかいなのがジャニーズファンはどこにでもいる。この圧倒的なカルトマジョリティは、学校にも、地域社会にも、企業にも、そして、そうした運動の中にも紛れ込んでいる。

 

僕たちの創造する門真市は幣原の「日本国憲法」の理念を高々と掲げた人権都市である。人権それそのものが名所でありランドマークとなる。従ってジャニーズファンや松本人志ファンの来訪は決して許さない。エシカルな企業や店舗の従業員にはジャニーズファンは厳しい面接により淘汰されることになるだろう。これからはAIによるキャッシュレス、デジタル化が進むことで、ホテルや店舗の移動タクシーの利用に際して、モンスターカスタマーによるハラスメントを避けるためにも、過去の利用実績だけではなく、個人のアーカイブにより、入店や利用を拒否できるようになる。ジャニーズファンや松本人志擁護の人間は、徹底的に差別、おっと、差別化による排除を徹底することにより、「日本国憲法」の理念を包摂する、世界に類のない芸術都市としてのアプローチが可能になる。少なくともSNSなどを通じて世界中の人権派や平和主義のアクティビストの間では日本にそういう都市が存在するというリアリズムが形成されることになるのである。