「もっと次の世代のことを考えた政治をやるべきだ」

 

今さら、一体何を言っているのか。今日のテレビで、米津玄師は、「100年たっても何もかもが消えてなくなるわけではなく、誰かが残したものを受け取って、それを自分たちが誰かに託していくっていう、その連続で生活、文化って連続していくと思う。そういうのが美しいよなって」とコメントしている。そもそも、芸術家の時間性は2GA(ツージェネレーションエイジ)であるはず。しかし、吉村氏が本気でそう思うのであれば、あれこれ言わず、今次世代のための政治を実行すれば良い。「0歳児に選挙権を」以前に、吉村氏はすでに当選しているのだから。君たちの失敗は、「維新」をラストページとしたことだ。つまり、ノンブルが間違っている。まず1ページ目に、「維新」を起こすべきである。君たちの「維新」など、いつでも、誰でも、どこでも実現できる。

 

吉村氏の「演劇」は実に退屈だ、そして何より「滑稽」だ。カジノの是非については、経済効果の試算の小さな幾何で批判するつもりはない。その背景にある、決して吉村氏だけの問題ではない、この国の「ハコモノ」依存による都市や国家の計画のあり方について、根本的に論理の秩序を転換しなければならない。この国の行政が新たに作らなければならないアーキテクチャーやヴィークルなど何一つない。吉村氏の内心の基層にあるのは、夢洲にグッゲンハイムを作りたいという大阪、いやこの国に覆っているランドリーやフロリダによる「創造都市論」の亡霊による呪縛である。

 

吉村氏や橋下氏等のような知術派の人間の最大の欠点は、「創造できない」ことである。この国には、未だに「創造都市論」の亡霊が彷徨っている。数十年前に世界中で大流行したフロリダやランドリーによるアレだ。「創造都市論」は、吉村氏や橋下氏らに「創造できない」人間にとっての最高の教典、吉村氏たち「創造できない」政治家たちの脳は、グッゲンハイムを作りたくてしかたがないというコングロマリット、つまり、学者、企業、団体などの権益複合体に支配されている。

 

そもそもこのデジタルの時代に、「グッゲンハイム」など全く必要ない。必要なのは「セツルメント」である。だいたい、権威と有名性でしか物事を判断できない日本人に「芸術/アート」などわかるはずがなく、もはや、そのインスタレーションは、ミュージアムなどではなく、オーディナリーなコモディティとしの芸術/アートのフェイズに突入している。台湾の震災後の迅速なテンポラリーのインスタレーションから学ぶべきである。「グッゲンハイム」は、ニューヨークにあって、スペイン・ビルバオにあればいい。

 

連邦セツルメントプロジェクトの具体的な芸術/アートとは、地震や自然災害、地域保育、高齢者や引きこもりをターゲットとしたインテグリティな機能を果たすテンポラリー・パビリオンのことである。決して6ヶ月後に壊すようなアーキテクチャーに何百億円もかけるなど狂気の沙汰としか言いようがない。万博のリングやシグネチャーパビリオンでは、決して「命輝く社会」という未来遠点の射影幾何にはなり得ない。そして、セツルメントの形象には、吉村氏も、維新も、行政も、政府も、国会議員も必要としない。

 

にわかに信じられないかもしれないが、吉村氏が何百何千億かけてやろうとしていることを、一人でやろうと思う。いや、一人、一人と言ったほうがいいのかもしれない。わたしたち芸術家は、政治家やコメンテーターではないから、言葉ではなく、作品/コンセクエンスで証明する。この国の政治家のようにできないことは言わないし、決して大げさに言う必要もない。連邦セツルメントプロジェクトについては、まずは、2025年からスタートし、2055年までに日本全国で30万箇所、世界中に2000万箇所のセツルメントを形象する。