「三界」は過去・現在・未来、あるいは、仏語で、欲界・色界・無色界、すなわち全世界のこと。女は幼少のときは親に、嫁に行ってからは夫に、老いては子供に従うものだから、広い世界のどこにも身を落ち着ける場所がないという意味である。

 

皮肉にも現在のこの国の「女は三界に家なし」の基層にあるのは、「あまりにも男女が平等」であり、この国の女性たちはこの「あまりにも男女が平等」の夢幻航路を彷徨っている。このドラマのモデルである三淵嘉子は、何の努力もしないで、新しくすばらしい民法ができることは夢のようとしながら、「あまりにも男女が平等であるために、女性にとって厳しい自覚と責任が要求されるだろう。はたして、現実の日本の女性が、それにこたえられるだろうか」と危惧した。

 

そして、ジャニーズ問題や松本人志問題において、その危惧は見事に的中した。「あまりにも男女が平等」に、人間の心がついていけなかったのである。現実的には「男女平等」が、人心の差別や分断を生み、皮肉にも「男女平等」が、現代のオルタナティブな「身分制度」として、ジェンダー、そして障害者差別を温存させる根拠理由になってしまった。

世界で展開されているのは、男女平等ではなく女性中心社会。女性中心のジェンダー平等社会という「未来遠点」の射影幾何の通過点として「男女平等」があったり、なかったりする。

 

また、このドラマでの「月経」を真っ正面から描写した「勇敢」は評価したい。もちろん、スポンサー企業により番組が成立する民法とは違い、NHKならではの優位性ではあるが。「月経」の理解は、人間理解、ジェンダー理解、女性理解の基層にある。そもそも、生涯500回を超える「月経」という苦難を抱える女性と男性が平等というのは概念行為として成り立たない。そしてあらゆるジェンダーがお互いの顔色を伺うのではなく、「月経」を見据えることにより、はじめて男女平等、ジェンダー平等の概念行為としての帰結が成立する。