完全被害者だということはアメリカの捜査当局がアメリカのマスコミを通じて言ったわけだから。

この国の人間は司法当局の判断が絶対正義となる。「完全被害者」というのは、アメリカの捜査当局にとっての「真実」であり、もちろんわたしたち日本人は、この結果に関しては本当に感謝している。しかし、古舘も、ひろゆきの主張も「当てずっぽう」で、決して古舘が大威張りするようなことではない。そもそも、「事実」は闇の中というのが、今回の帰結である。もし、本当に大谷が水原氏の賭博行為を「完全」に知らなかったと思っているのであれば、ほんとにおめでたい。人間に対する理解の欠如、水原氏が数年もの間、誰にも知られずにあれほどの回数の賭博ができるのか、そんな無理筋を子どもに説明できるのだろうか。大谷が本当に何も知らず「完全被害者」であれば、最初に自分の口で、正直に全てオープンにすればよかったはずである。もちろん、大谷にも「非」があるということではなく、例えアメリカの捜査当局が弁済の関与を認めても、大谷自身が賭博に関与していないのであれば、例え相手がアメリカでもあっても、大谷擁護に立ち上がるのが真の日本人の「義」である。「友」の窮地を救おうとした行為は法的に問題があろうと、人して決して責められる行為ではない。違法賭博に関しては、何よりも、アメリカが州単位ではなく、国家としてのインテグリティな政策を実行することが求められる。この国の人間は、何でもかんでも司法や裁判に委ねるが、客観的証拠だけで、「完全」な証明は難しく、「法定証拠主義」と事実認定・証拠評価について、裁判官の自由な判断に委ねた方が真実発見に資するという「自由心証主義」は、一つの器の内側と外側にあり、検事や裁判官の「主観」が大きく影響する。今回は捜査当局は、大谷に対して、これ以上の捜査は必要ない、いや、捜査したくないというのが彼らの「結論」だったと思う。つまり、大谷の人間性が勝ち取った極めて例外的なケースであり、決して抽象論で語るべきではない。大谷以外の人間であれば、捜査当局の「主観」でどちらに転んでもおかしくない厳しい状況であったことだけは紛れもない事実である。古舘氏のやっていることは、トランプ、バイデンどちらが勝つかという「当てずっぽう」と同じで、トランプを逆張りして偶然に「当てずっぽう」に勝利して、大はしゃぎしていた木村太郎と同じである。ジャーナリストであれば、結果の白黒ではなく、専門的、臨床的な様々な視点から浮かび上がる射影幾何を描く。そして、わたしたちのような反知性側の人間に正しい議論の場を提供することがジャーナリストの使命である。