「職業差別は皆無です」

 

 

「牛の世話する人」

 

川勝知事の内心にあるのは「職業差別」ではなく、明らかに「部落差別」の幾何である。だが、この国のジャーナリズムには、それを追求する「勇敢」は存在しない。松本人志の女性の人権、ジャニー喜多川の子どもの人権、そして川勝知事の「牛の世話する人」に対する人権侵害に対しても、この国ジャーナリズムのヒューマンライツは全く起動しない。

 

この国の人間は、「補助線」が引けない、いや引かない。

 

考察対象が物理的な「立体」であれば、そこには無数の視点と無数の理解の道筋があり、それだけで物的存在が人間の知覚理解の限界を超えるものであることが意味されている。つまり、「立体」は知覚で完結するものではなく,それが繰り返し解釈されることによって浮かび上がる認識のまとまりだと言える。

 

「人の世に熱あれ、人間に光あれ」の人権宣言から100年、

一度時計の針を巻き戻し、この国のヒューマンライツは、一からやり直した方がいい。