大谷翔平と松本人志

 

 

 

〈大谷翔平の場合〉

 

 

大谷の記者会見が行われた。

 

違法賭博に関しての関与は一切なく、19日の水原氏のインタービューでの発言は、全て「事実無根」だと言明した。この大谷の発言がこの問題の「真実」とされることになる。水原氏がそれでよければ、それでいいと思うし、それがいいと思う。今後水原氏がどう動くかは不確定な部分も残るがこれ以上「友」を窮地に追い込むようなことはないと思う。

 

もちろん、大谷の発言にも「嘘」はあるはず、松本人志問題と構図は同じだが、松本人志の「事実無根」とは全く次元が違う。そもそも「罪に問われるかどうか」という命題の設定や解法は、司法や弁護士たちのものであり、ジャーナリズムは、法を超えた人間の内心そのものを描くものであり、司法のような理路は取る必要はない。

 

仮に19日のインタービューでの発言が事実であったとしても、大谷の行為は水原氏を反社会的勢力の取り立ての暴漢から逃れるため他人の家の門を壊して敷地内へ逃げ込んだケースに相当すると判断することができる。それは刑法上では緊急避難の問題であり、民法上は正当防衛の問題となる。英米法においてもそれは認められているはず。国際法における緊急避難 とは、国家が重大かつ急迫の危険から自国にとって本質的な利益を保護するために国際法違反の措置が講じられたとしても、他に手段が無く相手国に本質的な利益に対する重大な侵害が発生しないならば例外的に適法とされる行為のことをいう。これは国際慣習法上認められた違法性阻却事由である。大谷の弁済の肩代わり行為は、もちろん違法賭博による反社会勢力の利益に加担するする側面もあるが、その反社会勢力から大切な友を守るための救済行動でもある。結果的に水原氏に対する脅迫的な取り立てによる生命や身体的暴力の危険や、不当な高利での貸付で水原氏を反社の手先として不正賭博に利用させることを未然に防ぐことにもつながっている。もし、水原氏が大谷に相談せずに、反社会的勢力に不正賭博の片棒を担ぐようなことになれば、MLB全体を巻き込んだ一大スキャンダル疑獄事件に発展した可能性すらある。もちろん、大谷にそこまでの意識が働いたとは思えないが、水原氏が賭博と決別する決意を与えたのも大谷の「義」によるものである。一方で水原氏が大谷に告白した時点で、球団や代理弁護人に報告しなかったことは報告義務違反であり、そのことに対しては、大谷は球団からの一定の処分は免れることはできないが、大谷の行為は決して責められる行為ではなく、日本人の「義」による気高くも勇敢な行動であり、日本あるいは日本人にとっては美しい行動なのである。「義」は武士道の根幹をなす、最も重要且つ厳しい教えである。

 

そもそも「罪に問われるかどうか」という命題の設定や解法は、司法や弁護士たちのものであり、ジャーナリズムは、法を超えた人間の内心そのものを描くものであり、司法のような理路は取る必要はない。「義」は日本という国の最大のアイデンティティであり、「義」とは道理に任せて決断する心。人が進むべき、まっすぐな狭き道。義は人の路であり、人が行うべき正しい道である。

 

確かに、アメリカであれ、日本であれ、司法の文脈で言えば、大谷と松本は同じ推定無罪人だが、実際のアバウトな幾何は、決して同じ類の人間ではない。大谷は水原氏だけではなく、チームメイトやファンー「友」を大切に思う人間であり、松本は女性ファンや仲間、後輩ー「友」をモノのように扱う人間である。つまり、これまでのアーカイブ・ジャーナリズムによるアイデンティティが全く異なる。

 

第一、アメリカの司法が違法賭博でギャンブルしている人を狙って調査したり、罰したりしない。米警察やFBIが追いかけているのは、あくまでもいわゆる”元締め””胴元”と呼ばれる、違法ギャンブル組織のボスや、賭け金を集めてくるブッキー/ブックメーカーであって、そっちがまず摘発されて、そこから立件するための捜査のプロセスで、違法にお金を賭けてた人間が捜査の対象となる。ワシントン州で認められている賭博がカルフォルニア州で認められないのは、カジノが先住民の既得権益として政治的取引とされているからであり、正すべきは大谷の資金管理の問題よりも、州法により合法と非合法が入り交ざる複雑な法体系である。郷に入らずんば郷に従うは当然だが、違法賭博が重大事案とするなら、東京では非合法だが、大阪では合法と言うのような現状を放置しているアメリカの政治の側に、第一義的な問題があるのではないか。

 

つまり、大谷は知っていようが知っていまいが、本人が賭博に参加していないのであれば、こんな窮屈な説明すらする必要は全くなかったのである。

むしろ、知ってて助け舟を出したのであれば、この国のジャーナリズムは、大谷の「義」が日本という国のにおいてどれほど大きな意味を持っているかということを展開し、日米双方の合理的な議論をリードする必要があったはずだ。沖縄の地位協定においても、確かに不平等だが、当然そこにはアメリカ側の日本の司法に対する不信感が存在している。そして、日本のジャーナリズムは見て見ぬふりを続けている。

 

残念ながらは、この国の「こたつ」ジャーナリズムは、物事の真実を演繹的に追求しているのではなく、アメリカ司法の状態の表層をなぞっているだけにすぎない。こうしたジャーナリズムの姿勢が、この国では行動様式をともなう対等で本質的な議論を起こすことができず、問題の断片の誹謗中傷の応酬を生んでいる。真実とは事実に基づいた内容あるいは状態で、創作されたり、予測されたものではないものであり、ジャーナリズムの使命は、公共の問題に関する批判や歩み寄りを行う議論の場をリードしなくてはならない。


ジャーナリズムのレゾンデートルは、決して、「罪に問われるかどうか」」という、司法のケツを追いかけるものではない。この国の「こたつ」ジャーナリズムは、司法の「状態」をなぞっているだけにすぎない。この国では、弁護士、識者らによるあいかわらずの「こたつ記事」の発信が続く。大谷の周辺に対して何の取材もせず、ネットの周辺をうろついて得た豆知識により、司法、裁判やMLB、そしてアメリカでの報道ジャーナリズムの評論、分析、予測を雄弁に語っている。

 

一方でアメリカのジャーナリズムは強敵だ。論理の矛盾を合理的についてくる。水原氏をインタービューした、地元紙ロサンゼルス・タイムズのエース記者、ポール・プリングル氏が、ジャーナリストとしての一体どのような幾何を描いていくのかが注目されるが、この国の「こたつ」ジャーナリズムは司法に丸投げする。

 

今後大谷の資金管理に対する責任追求も予想されるが、大谷にとってこんな面倒くさいことに時間を費やしたくはない。そんな時間があれば寝ていたい。それに水原氏に対する信頼関係により資金管理のすべてを任せていたとしても何の問題もない。日本とアメリカの感覚、どちらが正しいという問題ではなく、大谷の行為の責任については、アメリカ人あるいはアメリカ司法の論理もあれば、日本人には日本人の論理がある。この論理の戦争を挑まくて、日米関係性の対等な共生などあり得ない。そもそもアメリカ司法は多民族国家であることが法制の基層にある。そして、日本も多民族の構成する民族であることを忘れてはならない。つまり、アメリカが日本という国の文化や習俗を学ぶ良い機会でもある。

 

大谷にはこれからも「正直」であってほしいし、堂々とあってほしい。「こたつ」ジャーナリズムは、その結果ばかりを捉えて、水原氏の違法賭博の回収に協力あるいは加担したことになり、反社会的勢力の収益を上げているとしたり顔の得意気で雄弁に語っているが、それはあくまで結果論であり、大谷はこれまで通り、資金管理などは誰かに丸投げしていればいい、「少年」であること、それが大谷にとってに最高の存在意義なのだから。それはグラウンドの中であっても、外であっても。


 

 

〈松本人志の場合〉

 

 

ダウンタウン松本人志の笑いを、ルサンチマンという人間がいるが、それは違う。ルサンチマンとは、弱者が敵わない強者に対して内面に抱く、「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情である。

ダウンタウンの笑いは、世間に馴染めない人間が、世間を下から見られることの恐怖より、より下の人間を嘲ることによって生じる笑いである。

 

ダウンタウンの笑いを構成する元素は「根暗、友達がいない、喧嘩が弱い、勉強ができない」等であり、そのターゲットは、世界に居場所のない、生きる意味の見いだせない人間である。力の強いやつ、勉強できやつ、明るくノリのいいやつこそ偉い、正しいという、勉強系、暴力系の人間に対するアンチテーゼとしての静かな暴力。力ずくの暴力や真面目、勤勉に馴染めない人間に、「面白い」というオルタナティブな価値観を与えた。「いじり」という静かで合法的な「いじめ」が圧倒的な支持を得ることになった。

 

「いじり」の本質は、嘲りと逃避にあり、力のある者に対して堂々と反撃のできない人間によるフェティシズムの合法化と正当化である。

権力に対するカウンターとしての笑いという芸術を「いじめる側の愉悦」に変えたのが松本人志の最大の功績だと言え、その影響力は凄まじく、この40年間、他者を嘲ることは愉しい、快感という、この国はこの奇妙な膜に覆われてきたのである。

 

もちろん、松本人志の笑いに救われてきた人間がいるのも事実だが、

いじられキャラなどの持続的陰湿な「いじめ」のフォーミュラにより、失われた命は数しれない。もちろん、すべてが松本人志の責任ということではないが、松本のいじり、いじめのお笑いのメソッドが、直接的間接的に大きく影響しているのは紛れもない事実である。

 

松本人志のフェティシズムの思想は、障害者やいじられキャラの人間は「不完全品」であり、そのいじめによって自殺した人間には「死んだら負け」と突き放す。そして、そのトドメが「体を使って」発言である。こんなもの自身のフェティシズムの自白以外何ものでもない。

 

今回の事件は、その問題設定を松本人志のフェティシズムの総括とし、松本人志のお笑いを必要とする者と、必要としない者との本質的な議論を展開すべきである。松本人志のフェティシズムは、芸人や女性タレントに対して、セクハラ、パワハラを超越したいじめ芸だけではなく、障害者や犯罪者を何万分の1、何十万分の1の確率で生まれる「不完全品」と表現する、「体を使って」発言については、もはやフェティシズムの自白である。

 

こうした「表現の自由」は、テレビ、NHK、企業CM、社会的コメンテーター、行政アンバサダー、そして、結婚や家族の並立は成立しない。

松本人志が自身の表現を貫きたいのであれば、全て捨ててインターネットや舞台、評論活動に専念できるように、何よりも社会が松本人志の退出を決断すべきである。