有働は「あたしなんか、全部間違ってると思いますけど、言い訳の『多様性』は本当に多様性に対して失礼で、そのへんを言い訳に使うんかい!っていう」と怒りをあらわにした。

女性ジャーナリストなら、
人権問題の文脈で議論を展開すべき。

写真で見る限り、ダンサーはパンツをはいており、この国では、ドレスコードとして、パンツさえはいていれば、どんな格好をしようと「表現の自由」である。線の引きようがない。この女性ダンサーの下着ファッションは卑猥で、DJ SODAの下着ファッションはアートなどと言い出すと議論にならない。
問題は身体的な接触であり、もし議員がダンサーの体に触れていれば完全にアウトである。身に覚えのあるダンサーは警察に訴え、あとは司法に委ねるべきである。

論点であるダイバーシティの主張は、皮肉にも一周回って自民議員の主張に一定の合理性がある。この国では、ダイバーシティとは、それぞれの人々が持つ多種多様なバックグラウンドのことで、個人の違いを認め合い、尊重し合う共生と相似の概念として捉えているが、それはダイバーシティの持つ概念の断片に過ぎない。ダイバーシティの基層にある概念は、存在する矛盾の対立と統一による具体的な行動様式の射影幾何のことであり、とにかく仲良くやっていこうということではない。ダイバーシティは、「矛盾」(戦争)と向き合った後の結果であり、「戦争」と向き合いもせずにダイバーシティなどというのは、概念行為として成り立たない。

そもそも日本という国には、多くの日本人は差別をしない、差別とは無関係と思っており、あらゆる人権問題の基層に矛盾が存在しないらしい。つまり、この国では人権や差別における矛盾が存在しない。「矛盾」が存在しないのであれば、ダイバーシティについて、書物の世界の「豆知識」によるレトリックの応酬に何の意味もない。そんなバカな話があるかと思うが、この国の人間は本気でそう思っているから仕方がない。

そういう意味では、皮肉にも自民議員の主張する「ダイバーシティ」は、トポロジー/位相幾何として論理の可能性を見出す発言だと言える。むしろ、全部間違っているのは、氷山全体のごく一部の表層に目を奪われ、概念の全体観を見失い、全く論理を展開のできない有働由美子の方である。日本という国は、概念の概念が理解できない、世界でただ一つの残念な国。そしてジャーナリストでありながら、概念の展開を全くできない有動氏らマスコミメディアの顔たちは、残念な国の残念な女性ジャーナリストとしか言いようがない。

現世代の議員やマスコミメディア、ジャーナリズムは、もうどうにもならない。もっと先の次世代を見据えた議論が必要である。