「弱い」「非常に薄い…」のはテレビ弁護士やテレビコメンテーター、ユーチューバーたちである。この間の松本人志狂騒は、芸能ゴシップとしては、非常に面白いかったのかも知れないが、ジャニーズ問題と同様に、ゴシップに始まりゴシップで終わる。結局何も残らない。松本人志が女性に対して行ったフェティシズムの因果は、巡り巡って国民からフェティシズムにより抹殺されることになる。そして、国民が松本人志に対して行ったフェティシズムは、やがて巡り巡って自らに降りかかることになる。これが因果応報である。
松本人志批判は、松本個人ではなく、女性に対するフェティシズ厶に対して、いかにこの国のヒューマンライツが起動するかというのが命題だったはず。
だがこの国の人間には、そんなことはどうでもよく、とにかく誰かを晒したり、嘲りたい、その対象としてのモノは、松本人志でも、麻生副総理でも誰もいい。日本人には、差別のアプリオリが厳然とあり、そしてその願望は、目の前の人間を差別する勇気も度胸はないが、一旦モノ化することで、差別や人権侵害に対する免罪符を手に入れ、ストレスは軽減される。松本人志のお笑いのメソッドはそこに基層が存在し、それが大勢の日本人の共感を呼んだ。松本人志自身が今回の結末を、恥辱ととるか、本望と取るか、それは誰にもわからない。