この国の女性解放運動は「参政権」に到達出来なかった。

この国の女性解放運動は、松本人志の女性差別の頂点である

「体を使って」発言を見逃した。

この国の女性解放運動は、「参政権」以前の「廃娼」運動から

100年の時間性を巻き戻さなければならない。

 

もちろん、それは決して黎明期の女性解放運動における、先人の女性たちの戦いの苦難を否定しているのではなく、この国の外から「与えられた」成果により、皮肉にもこの国の女性、あるいはフェミニズムは完全に分裂し、様々な議論は、もはや位相的に同型とは言えなくなってしまった。



松本人志問題を、オルタナティブな「第一波」のフェミニズム運動として
位置づけ「女性圏」のインテグリティな位相を再構築しなければならない。そして、その思想核となるのは、男女平等社会ではなく、女性中心社会という人類の未来社会の帰結であり、それは世界に先駆け日本発で展開するという大冒険だ。

女性圏論

female-centered society category

woman centre

 

 

woman topology

ウーマントポロジー

 

位相としての女性圏〜女性と男性はトポロジカルに同相

 

 

 

今回の松本人志問題で行われたのは一体何だったのか。

 

松本人志は自らが特権階級として、その競技の説明もせず、
「女性」は、コロシアムに連れて来られた時点で、
いきなり「馬」として扱われ、騎手たちは当たり前そうに女性という「馬」に跨り、手綱を手に取り「女性」の制御が始まる。
松本人志にとって、紳士的を装った女性虐待のロールプレイングゲーム。

この「松本人志式競技」は、女性を動物として扱う性的快楽を目的としたアニマル・ロールプレイであり、フェティシズムの中でもおける最上級の女性蔑視思想だと言える。

 

この問題を「不倫」や「性加害」、「同意」、「不同意」の「性行為」などとするのは、問題設定も解法もすべてにおいて間違ってる。これは「松本人志式競技」、女性を「モノ」や「動物」扱いで操縦する性的快楽のゲームである。
松本人志式競技は、生き物としての「女性」に男性が跨り、一体となって接触し、性的競技を行う娯楽エンターテイメント。松本人志式競技においては、運動するエネルギーは「女性」の役割で、そのためのリズムとバランスを与えるのが下僕である後輩芸人らアテンドの役割だ。
松本人志式競技では、飲み会参加女性の職業や容姿を競う《飲み会コンテスト性交術競技》、コース上に設置された障害物を飛越しながらミスなく早くホテルの寝室へ走行する《ホテル障害性交術競技》、飲み会とホテルの2種目に加えて女性をチェンジし、ダイナミックなクロスカントリー走行を加えた3種目を戦い抜く《乱交性交術競技》の3種目が行われている。

 

 

 

もちろん、松本人志式競技は、決して松本人志やお笑い芸人だけでなく、この国では、こんな悍ましいことが全国至るところで行われている。

 

テレビの女性弁護士や女性コメンテーターたちは、世間の顔色をうかがい、テレビ局の顔色をうかがい、吉本の顔色を伺いながら、同じように口を揃えて裁判の結果を唱えている。この国では社会というコロシアムにおいて、女性をまるで「馬」のように跨っては、様々な松本人志式競技が今もまさに日本全国で行われている。

 

この国の女性たちは、「体を使って」発言で目を瞑り、「ジャニーズ問題」で目を瞑り、そしてまたこの問題でも目を瞑るつもりなのか。

まあいい。

この国のジャニーズファンが大勢を占める女性マジョリティに何を言っても無駄なのかも知れない。18歳も超えた大人のオバサンに今更「人権」やヒューマンライツを説いても仕方がない。

 

だが、これだけは憶えておいて欲しい。近い将来、この国にも勇敢な少女たちが立ち上がることになる。世界ではすでにそういう少女たちが躍動している。この国にもかならず現れる。その時に大人のオバサンたちは決して邪魔をするな。彼女たちの「サフラジェット」は、粗削りで不完全、社会を騒がすかもしれない。しかし、そのラディカルな表現は純粋で勇敢だ。法制度の平等の概念である第一波フェミニズム(First-wave feminism)を軽く飛び越えたフェミニズム3.0のイニシアチブが展開されることになる。

 

 

フェミニズム3.0

サフラジェットの女性たち

 

男性と女性、そしてあらゆるジェンダーは、

平等ではなく、同相である。

 

エメリン・パンクハーストは、イギリスの〈サフラジェット〉(女性参政権活動家 )1999年、タイム誌は彼女を「20世紀における最も重要な100人」の一人に選び、「彼女は現代における目指すべき理想を形作り」「後戻りできない新しい規範へと社会を揺り動かした」と述べている。 

1903年、パンクハーストは、全ての女性の参政権を支持する「言葉ではなく行動」を標榜し、活動家たちは、繰り返し刑務所に収監されたが、より良い待遇のためにハンガーストライキを行い、しばしば強制摂食を強いられたが、戦い続けた結果、1918年、国民代表法によって21歳以上の男性と30歳以上の女性のすべてに投票権が与えられた。

 

そして、もう一人の〈サフラジェット〉であるエミリー・ワイルディング・デイヴィソンも、9回にわたって逮捕されることとなった極端に過激な戦略で知られていた。ハンガーストライキなどの手段で抵抗し、収監中に49回も強制摂食を受けている。

1913年6月4日、ロンドン郊外、エプソム競馬場で行われた最も権威あるダービーにおいて、ゴール寸前のその時、国王の馬をめがけて一人の女性が飛び込んだ。エミリー・デイヴィソンだ。猛スピードで走る馬に跳ねられ死亡した。女性に参政権をというスカーフが握られていた。

 

男女平等の「圏」には、何層ものガラスの天井が張り巡らされている。ガラスの天井とは、女性や社会的マイノリティーがキャリアアップを目指す際に直面する目に見えない障壁。資質や実績はあっても、一定の職位以上に昇進させようとしないことの例えとして使われる。1980年代に米国で広く使われるようになった。米国初の女性大統領を目指したヒラリー・クリントンは、2016年の大統領選の敗北演説で「ガラスの天井を打ち破れなかった」と語った。

 

しかし、大統領選に敗退したヒラリーは、

 

「今 この映像を見ているすべての少女たちに伝えます。

決して忘れないであなたたちはかけがえのない存在で

大きな力を持っていてこの世界のどんなことにも

挑戦する資格があることをあなた自身の夢を追いかけ

実現してください」

と少女たちにメッセージを送っている。

 

ヒラリーが最も影響を受けたとされるのがルース・ベイダーだ。RBGと呼ばれ、後に最高裁判所判事となる女性である。黒人への差別撤廃を求める公民権運動が巻き起こり女性たちも声を上げた。フェミニズム第二波のウーマン・リブである。

「女性にも知性はあります 体だけではありません」と声を上げた。

ルース・ベイダー・キンズバーグは頭角を表した。ルースの目指したのは、女性の地位向上や形式の男女平等ではない。高齢の母親を介護する男性や、妻に先立たれ育児に専念する男性に対して女性だけにしか認められていなかった税の控除や補償を実現している。社会の女性や命を中心に置き、そのために男女平等を実現するという揺るぎない信念。

ベースは言う。

「女性を優遇しろとは言っていません。ただ 私たちの首を踏みつけているその足をどけてほしいのです」

そしてクリントン政権下で連邦最高裁判所判事に指名された。

そして、アメリカでは、性別による差別撤廃の機運は高まり、

法規制は一気に進んだ。

男性だらけの法曹界にたった一人で勇敢に飛び込んだルースの姿に大きな影響を受けたのがヒラリーであり、

そして、人権活動家 マララ・ユスフザイであった。

マララは、ベース追悼の言葉として、「彼女の功績を称え、世界を良くするリーダーとなるようより多くの少女たちの手助けをしなくてはなりません」と送っている。

 

ジェニファー・キャロル・フォイ

ルースの手掛けた判決によって軍事大学の入学を果たした女性だ。

「ギンズバーグ判事のおかげで、私は軍事大学で学ぶことができました。彼女の言葉や仕事そして努力する姿勢は私の人生を変えました。自分の人生を自分で選択し切り開くことを教えてくれました。」

フォイはその後、弁護士となり、2017年下院議員に当選し、現在はバージニア州知事を目指している。私はフォイは、カマラ・ハリス現副大統領に続き、民主党の大統領候補となり、いずれアメリカ合衆国初の黒人女性大統領となり、ガラスの天井を打ち破ることになると思っている。

なぜなら、フォイもヒラリー・クリントンもRBGも、同じ女性圏におけるトポロジカルに同型の政治家だからである。

 

残念ながら、この国には物語が存在しない。わたしたちの使命は、次世代の少女たちが、自由な発想で自己表現の出来る女性圏の基層を作ることである。2025年は、2055年、2075年、2125年ー30年後、50年後、100年後の予兆である。目の前に「松本人志」が現れたら、あれこれ言わずに、飛び込んでいく勇敢なサフラジェットな少女たちが、この国のオルタナティブな女性圏を構築することになる。その時になって、ジャニーズファンのオバサンたちの参加は必要とはしない。今、飛び込むか、笑うか、一人の女性として、いかに生きるべきか覚悟を持って選択すればいい。例え18歳でもジャニーズファンは、麻生副総理と同じ位相にいるすでに時代遅れのオバサンだ。少女たちと同じ女性でも決して同相ではない。

もちろん、それでも敵視する必要もないし、衝突する必要もない。とにかくわたしたちのフェミニズムには関わらないで欲しい。運動で最も重要なのは、「数」ではなく、「密度」である。女性圏の主体は、次世代の少女たちであり、それがわたしたちにとっての未来遠点なのである。