『「被害を訴える女性の声に正面から向き合う、これしかないのではないか」

これは芸能スキャンダルなどではなく、“性加害”に近い事件だということです。

ここにあるメンタリティはかつて国際問題にもなった日本人男性の買春ツアーにも重なって見えます。アジア各地に出向き、金に物を言わせて現地の女性を性の捌け口にした――相手を対等な人格として尊重しないという点で、とてもよく似ているんじゃないでしょうか。

その点で、疑似的な集団レイプのような印象を受けました。

なぜ松本氏は語ろうとしないのか。私の疑問はこれに尽きます。

裁判という公の場で反論するからいいじゃないか、もしかしたら松本氏はそう考えているかもしれない。世の中にも一定数そういう声があるようです。ですが、それは裁判という司法制度に対する歪んだ信仰です。

裁判は必ずしも真偽を争う場にはなりません。弁護士が説得力を競って、裁判官が司法判断を下すだけです。これまでの松本氏の芸風からすれば、司法判断に下駄を預けるという選択は大変残念です。

 この一連の騒ぎの中で一番問題なのは、被害を訴える女性の声に真剣に向き合う人が誰もいないということです。』




「平等」とは、50の近傍における過分と不足の可縮 (contarctible) によるアバウトな幾何空間をさすが、この国では49であれば「差別」、51であれば「逆差別」となり、50という「平等」は、書物の世界の単なる「質点」にすぎず、現実社会において実質的な大きさは存在しない。
これは日本人の基層にあるのが、「平等」や「対等」ではなく、どちらかが「上」で、どちらかが「下」でなければ、どうにも落ち着かないというアプリオリに起因している。

つまり、日本人の心のバランス/平静は、平等や公正というフラットな平行面でなく、斜めに傾いた/非ユークリッド幾何がデフォルトになっている。
だからこそ、このような女性の人権に関する問題を起きたときに、「男女平等」を前提とした議論は、さらなるパラドクスを呼び起こすことになる。「男女平等」という題目では、フェミニズムは必ず分裂する。何よりも女性が中心となる社会を「未来遠点」とする、アバウトな幾何の「圏」を示すことが
必要であり、この国の差別問題や人権問題を考えるときには、この日本人のゲノムをベクトルの起点として、連続する射あるいは射影を展開しなければ立体的な写像は浮かび上がってこない。そうした覚悟と勇敢を掲げた女性が、一人でも出てこなければ、この国において、女性人権や真のジェンダー平等など、絵空物語で終わることになる。

ジャニーズ問題でも無理、松本人志問題でも女性が声を上げることはできなければ、将来に大きな禍根を残すことになる。あなたたちの娘子どもや孫たちに、「お母さん、おばあさんは、どうしてあの時、声を上げてくれなかったの?」と言われたら、一体どのように答えるつもりなのか。もちろん、社会における真の変化は、一歩づつ起こるものだ。しかし、聞く耳を持たれずとも、声を上げ続けなければならない。たとえあなたが生きているうちにそれが実現しなくても。

少女たちは、いずれ女性であるという事実が意味をなさない時代に生きることになる。決して女性を優遇しろとは言っているのではなく、少女たちの首を踏みつけている、その足をどけろと言っている。それは別に、男性や社会に、「男女平等」だからとお願いしているんじゃない。少女たちが社会の中心となって、この国を導いていくから、邪魔をするな、足をどけろと言っている。

 

未来から先回りすれば、女性中心社会が人類の帰結である。

それが女性にとって、プラスであっても、マイナスであっても