エンターテインメントにおける「自由」のデフォルトは、その質量がゼロでなければならない。「自由」にあれこれ制限を加えると、それはもう「自由」などとは呼べない。
つまり、慣性系などの系によらず、いかなる立場でどこから見ようが、加速度が有ろうと自由の「速さ」は、質量を持たない物が動く速さであり、何者もこれより早く動くことは出来ない。その事に対する難解な証明は決して必要ではなく、バラドキシカルに言えば、わたしたちはその現象を「自由」と呼んでいるのである。つまり、エンターテインメントにおける、「表現の自由」とは恐ろしいほどの純粋な概念だと言える。
一方でわたしたちが、普段社会において使われている「自由」は、その特殊な「圏」における、法律用語であり、それはまた法律の圏により様々にその解釈は異なるのは当然である。
若者や子どもたちに言いたいのは、松本人志が属している芸術エンターテイメントの世界には、自由、人権、そして生命にすら重力は存在しない。それが受け入れられないのであれば、普通の社会の「圏」に戻ってきなさいということである。誤解してはいけないのは、エンターテインメントが特殊な社会ではなく、一般社会が特殊な「圏」であり、エンターテインメントは、極めて純粋な「圏」であるという理解が必要である。だからこそ、エンターテインメントの「圏」に対して、一般社会の「法」を押し付けることは、この国のエンタメの「表現の自由」を侵害することになる。もちろん、エンターテインメントの世界は決して、治外法権ではなくあくまでオーバーレイに重なっている構造にあり、ここで暴力や傷害など特殊社会の法が実効支配していることは当然である。
私が言っているのは、「表現の自由」は、それさえも超えているということであり、つまり、その罰則さえ覚悟すれば、何をするのも「自由」でなければならない。特殊社会の「法律」を気にして、良い作品、面白い作品など出来るはずがない。すべては表現者の美意識が決定する。もはや世界の経済は、マーケティングから、すでにエシカルを飛び越えて企業の美意識へとフェイズが移行している。この国の企業や製品、音楽演劇のエンターテインメントがつまらないのは、表現者の覚悟のなさである。周りの顔色ばかり伺い、このまま「おもてなし」のマーケティングなど続けていけば、日本は醜悪な笑顔の「百均国家」になりさがることになる。吉本のような百均の笑いや、ジャニーズの百均のアイドルエンターテイメントのそれは、別にあってもいいが、しかし、それをクールジャパンなどと言ってほしくない。世界では日本のクールジャパンを「百均ポルノ」呼んでおり、それは未来遠点においてもこの国のエンタテインメントのプレゼンスには決してならないのである。
人間で最も醜いのは、松本人志のような蝙蝠こうもり人間である。他者の名誉や人権を侵害する「表現の自由」を主張することで、新たな時代の笑いを生み出し、財を築いた人間が、自分の「名誉権」が侵害されるとなるや、慌てふためいて、他者の「表現の自由」を否定し、特殊社会の「法」に救いを求めるというダブルスタンダードや反転不整合、二枚舌の人間である。
私個人としては、それでもこの国のがんじがらめの特殊社会よりも、自由奔放なエンタメの「圏」の方に魅力を感じる。芸術において、ターゲットの一人一人の人生や命の重みを感じて表現など出来るはずがない。私が演劇の監督であれば、覚悟もなくあれこれ理屈っぽい女優は起用しない。自分の表現を共有し、何でも忠実に実行することの出来るホムンクルスを選ぶ。それが真のフェティシズムである。松本人志のフェティシズムとは、次元が全く違う。モノ(作品)だから大切にする。そして、その作品は監督のものでもあり、女優のものでもある。人間の価値より作品の価値の方が重いのは、芸術家であれば当然である。ただ、それには大きなリスクを伴う、「自由」の追求は、例え人気が出ても、友を失い家族も失う。経済的な浮き沈みは大きく、というより沈みっ放しの状態が続くことになる。そんなことをずっと言ってるから、事実、結婚もできず、財産も残せず、ボロボロになった生体を抱えながら社会の周縁で溝に塗れながら生きている。それでも、胸を張って自慢できることが二つある。この人生はそれなりに楽しいし、夢がある。そしてときどき、人類の役に立つということだ。
もし、エンターテインメントの人間が、そのようなステレオタイプの極論ではなく、一般の社会人と同様に、一定の人権や平等が担保される、民主的な「圏」を目指すのであれば、特殊社会の法に頼るのではなく、自分たちの力で「自主法制」を築きべきである。死んでも特殊社会に存在する、「名誉権」など主張することはあってはならない。エンターテイメントの住民たちは、このみっともない男を養護することは、自分で自分の首を締めているのと同じこと。次の世代の子どもたちのためにもエンターテイメントがもっとも深く思考しなければならない。「自由」が恐ければ、自分たちの身の丈に合ったまずはアバウトな幾何によりオルタナティブな「圏」を示して欲しい。権力や特殊社会の法律なんか頼るなよ。あとは、新たな卵たちが、自分の考え方にあった、それぞれの契約を選択すればいい。とにかく、松本人志のように、自分だけが「自由」などいう人間は、全国民いや全人類的な力で、一旦抹殺した上で、この国のエンターテイメントのあり方を再構築すべきである。