「名誉毀損(きそん)罪というものが、やや形骸化しないかなと。

 

「名誉毀損罪」というのは、松本人志のような人間のためにあるのではなく、「表現の自由」を持たない人間のために発動する極めて重要な法である。

 

 

そもそも「表現の自由」とは異なり、「名誉(権)」について直接的に定めた規定は、憲法上には存在しない。

 

日本国憲法における「名誉権」の射影は、人格権ー幸福追求権ー憲法第13条となり、憲法第13条では「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定されており、憲法では、この規定を根拠に、「個人の人格的生存に不可欠の利益」または「広く一般的行為の自由に関する権利」を「幸福追求権」として保障しているものと考えられている。個別に規定された権利でないものであっても、憲法上の保障の対象になり得ると考えられている名誉は、人が社会の中で生きていくうえで、自分らしさを発揮したり確認したりするために必要とされる。

 

これが「名誉権」の位相幾何である。

 

そして、私たち表現者にとっての「幸福追求権」の選択において、最も優先されるのは「表現の自由」である。表現者の「名誉権」の主張については、確かに教科書的には、すべての国民が有する権利ではあるが、とりわけ松本人志のお笑いの表現は、他者の「名誉権」を侵害することで成立する芸術表現である以上、自身の権利において「表現の自由」も「名誉権」もと言うのは、あまりにも身勝手であり、自身の「名誉権」の主張は、全く合理性を持たない反転不整合による解釈と言える。

 

表現者の「表現の自由」が、公共の福祉に反し、他者の「名誉権」を侵害し、「表現の自由」が暴走した時に起動するのがヒューマンライツ(日本では人権と翻訳されている)である。今回の場合、一連の文春報道が、松本人志の「幸福追求権」を侵害したというよりも、松本人志の「表現の自由」が公共の福祉や大勢の女性人権の侵害の暴走に対して、文春の一連の取材によりヒューマンライツが起動したと見るべきである。したがって、松本人志の名誉毀損の訴えは、この国の裁判制度を自らの弁論や説明責任の忌避のために、私的に乱用する「濫訴」と認定し、文春側が反訴すれば、逆に松本人志には文春に対しての、名誉毀損及び偽計業務妨害による損害賠償責任が生じることになる。

 

 

 

判決

「松本、死刑!」

 

お笑いなら、

お笑いらしく、

「素っ頓狂」なこと言えよ。

もっと、面白いことを言えよ。

表現者なら、

表現者らしく、

裁判や弁護士なんかに頼るなよ。