『記事は事実か・事実なら違法性はあるのか』

松本人志側が訴えているのは、文春の第一弾だけであり、第二弾以降の記事内容は認めており、もちろんここには違法性などなく、その意味は松本人志のフェティシズムという一枚の台帳に過去のアーカイブが主題の解像度を高めていることである。

 

『事実でも違法性がなければ当事者同士の問題であり、少なくともアナタには関係ないですよね、という話です』というのも、

過去の「体を使って」発言では、指原莉乃との信頼関係などという声が大きかったが、表現者松本人志のフェティシズムが問われており、違法性や当事者の信頼関係など全く関係はない。これは女性の人権問題であり、世界はそこに注目している。

 

『蚊帳の外ポジションの方々がナゼこんな鼻息粗く青筋立てて殴り合えるのか、とても不思議です。』に至っては、例え蚊帳の外であろうと、例え違法性がなくても、人権侵害が起これば、どこからでも駆けつけて殴り合うことがヒューマンライツの概念である。同じことことを拉致被害者に言えるのか。少なくとも日本という国の「蚊帳の内」にいる。

 

問題はSNSの匿名性にあり、自らの素性を明らかにしリスクを負う覚悟があれば、いかなる表現は自由である。松本人志はこの40年間そうやって「表現の自由」を謳歌し莫大な蓄財を達成している。

 

まだまだあるが、言い出せばきりがなく、最後は「テレビに出ない」戦略などと松本を祭り上げ出す始末、こんなもの戦略でも何でもない、ただただ事実に向き合うことが出来ない。あまりにみっともない自分の姿を正視できない。この問題は松本人志が少しの「勇敢」を持って事実を明らかにすればいいだけである。

 

『問題をこじらせてる「擁護」&「バッシング」の違和感』などとたいそうなことではなく、このような事態を生んだのはすべての原因は松本人志にあり自業自得である。匿名やネットなどの閲覧数稼ぎのヤカラは引き算して、この「擁護」&「バッシング」の戦争は、ここまでむしろ肯定的に評価すべきではないか。松本人志には、一般人にはない対抗言論の場があり、これまで多くの他者をいじり、嘲り、もちろん多くの笑いという幸福も生んでいるが、一方で多くの子供たちにいじめのメソッドを提供し、中にはその笑いで命を落とした子供たちも決して少なくない。

 

この国の人間には、会見であれ、何であれ、松本人志が「沈黙」を続ける限り、「バッシング」は永遠に続けることの「根気」が問われている。この国の人間はすぐに飽きる。ジャニーズ問題にはもう全く興味を示さない。

もちろん「人権」を取るか、「エンタメ」を取るかは個人の自由であり、「擁護」と「バッシング」が存在することは、むしろ健全というべきかもしれないが、私はここはこの国がヒューマンライツや人権という概念を獲得できるかどうかの正念場だと思っている。ジャニーズで負け、松本人志で負けれるとなれば、二度とこんなチャンスはやってくることはなく、日本は人権後進国として世界から永遠に笑われ続けることになる。

 

表現における最大のパラドクスは、こうした知性派を気取った問題の本質から逃避する人間である。ここは正々堂々と身分を明かし、カウント稼ぎではなく、そして言葉も選ばす、殴り合うことでその後のお互いの共生の着地点を見出すことに注力するほうがいいと思う。