「真相が明らかになるまでコメントはできない」

「裁判で白黒つければいい」

 

日本という国は、誰かに決めてもらわなければ、自分の目で「白」と「黒」の判別ができない「色覚失認」を起こしている。

松本人志の行為一つ一つは、決して「黒」とは断定できないが、その重なりから全体像を見渡せば、その影のような描写により背景の「黒」の濃さが再現され、全体観における告発女性の写像は、「白」色に浮かび上がってくる。そうやって、女性人権を浮上させる写像幾何、あるいは位相幾何トポロジーを世界では、ヒューマンライツと呼んでいる。

 

被害女性による文春へのリークは、まだまだ続いていくことになる。だが、この国のヒューマンライツは未だに起動しない。この国のマスコミジャーナリズムは、ジャニーズ問題の総括が出来ず、松本人志は、マスコミジャーナリズムの体たらくとジャニーズのキムタクから学び、沈黙と無意味構文で乗り切ろうとしている。キムタクはキムタク、松本は松本というトートロジーは、決して誤りにはなりえない一方で、情報量は増えない問題の帰結に向けて、全く無意味な行為である。

 

おそらく、時間稼ぎの和解を狙っているようだが、いくらなんでも裁判所を見くびりすぎである。この国の全裁判官の心証はすでに固まっている。もはや告発女性のが出廷する必要もないし、松本人志の証言の必要もない。裁判所に勇敢があれば、対質尋問を行ない一発で結審できる写像は、すでに構築されている。

 

松本の訴訟は、「濫訴」として、裁判所の良識によって門前払いされるのがオチである。文春が反訴すれば松本側が慰謝料を支払うことになる。裁判所は、松本側担当弁護士にそう告げることになり、松本人志は訴訟を取り下げざるを得ない。そもそも、これを刑事事件として告訴しても、受理されるどころか、窓口の警察官に鼻で笑われ逆に説教を食らうことになる。

 

 

「真相が明らかになるまでコメントはできない」

「裁判で白黒つければいい」

 

松本人志問題で、このような無知未満のコメントをしたジャーナリストは、アーカイブに残しておくことが必要である。そもそも民事裁判は、白黒の決着を受ける場ではない。事実の有無と裁判の勝負に相関はない。密室でしかも当事者の内心を明らかにすることはできず、その上、人間は嘘をつく。この国の人間は一体裁判の何に期待をしているのだろう。今、この時間性において、過去のアーカイブより、松本人志の「黒」の写像を影として描写することにより、「告白女性」の人権を浮上させることが出来なければ、いつまで経っても、この国にヒューマンライツは身につかない。

 

非暴力運動の象徴であるガンジーの非暴力とは、単に腕力を用いないということではない。ガンジーは、臆病者の無抵抗か、暴力を用いた抵抗かを選ぶとしたら、迷うことなく暴力を勧めるとまで言っている。ガンジーの非暴力思想には3相あり、死をも恐れない勇敢さと相手の良心に訴える力を持つ「完全な非暴力」、暴力によってでも勇敢に立ち上がり抵抗する「非暴力的暴力」、そして臆病が理由の「偽善的無抵抗」。上辺だけの非暴力は最悪の道徳的堕落、それは暴力よりも卑しいと考えだ。この国の人間の法治主義を隠れ蓑にした、「白」と「黒」の色相失認は、被害者の「人権」に目を覆う、根拠のない誹謗中傷よりも卑しい、最も恥ずべき行為だと言える。