日本人の思考

 

 

日本人が苦手なのはデザインやアートではなく、

「思考」そのものが苦手な国民性だと言える。

 

そもそもこの国にはデザインやアート、その淵源である無限遠点を持たない。世界の先進国はトポロジーのフェイズに突入しているのに、いつまで経ってもユークリッド幾何の世界から脱出できず、射影幾何の発達段階にさえ到達していないのは、世界中で日本だけである。日本人は、アートやデザイン、いや、新型コロナも最近話題の松本人志問題まで、何でもかんでも「定規」で美しい線を描こうとすること自体に無理がある。要素還元主義や法的措置、法治主義などと、臨床や行動、つまり自らの手を汚したくない。日本人は、フリーハンドによるデザインストロークができない。世界の位相はすでに別に直線じゃなくてもいいじゃないかという、オルタナティブなフェイズに向かっているのにである。生成AIやデジタルと同様にデザイン思考やアート思考などと言い出す時点で、この国は何周回も遅れている。

 

世界におけるアートやデザインの概念はドラスティックに転換し始めており、アップルのプロダクツは、もはやデザインやアートとは呼ばない。アップルにとってコモディティに過ぎないのである。つまりモノの在り方から射影すると、こういうデザインになる。インテグリティな表現のコンセクエンス/帰結なのである。一方で日本人にとっては、無印良品は未だにデザインであり、生活の余白、付加価値と捉えられている。

 

「なぜ日本人は」などと始まれば、この国の日本は素晴らしい、日本人は優秀と信じこむ多くのエントロピーたちは、無意識のカエルのように、条件反射で思考停止する。

一方で自国日本や自国日本人の批判をする場合は、その立ち位置を自覚しなければならない。テレビ番組には出ない、もしくは報酬はもらわないや、国や行政からの助成を受けないというのが鉄則である。そうでなけれなければ、「表現の不自由展」の現代アーチストや政府御用達の作品や助成を受けながら政府批判やカウンターを気取る、海外賞狙いの映画監督の主張と同じになる。

 

この筆者自身がテレビ側からオファーがあるのは、テレビの前の思考できない人間や、思考できない番組側に、筆者の思考が評価されているというパラドクスに気づくべきである。テレビ番組、講演会において、デザイン思考、アート思考の不足などと、上からあるいは客観的立場を装った、他者の評論や批判はあり得ない。やっていることの構図は、お笑いの分際でテレビで社会的コメントを発信し、カウンターを気取る松本人志と同じである。日本人による自国の評論は、ナショナリズムを盾にした反発のための反発を産み、それを回避するために表現が回りくどくなる。今問われているのは、「日本人論」である。世界が不思議に思う「日本人」という摩訶不思議なアイデンティティの内側に侵入した議論が必要なのは共通認識ではあるが、あらゆる批判や評論にはその覚悟が伴い、その立ち位置やアーカイブによる発言のインテグリティな一貫性が問われる。日本や日本人を批判的に評論したいのであれば、やはり日本人マジョリティを非ターゲットをとし、弱者や少数者に依拠し、社会の外側や下側、あるいは周縁の位置から発信すべきである。