ジャニーズタレント、吉本芸人。この国のエンタテインメントは「卑怯者」の集まり。裁判の結果を見守るなどと耳障りのいい言葉を隠れ蓑にして、決して誰一人、勇敢に戦わない。お笑い芸人たちは、普段は他人のゴシップや政治問題などに関しては安全地帯から、何故か突然メガネをかけて退屈な正論コメントを繰り返すにも関わらず、ジャニーズ問題、松本人志不同意わいせつ問題、過去の闇営業問題など、自分たちに関わる問題になると急に無口になり、だんまりを続ける。8年前も前のことで真実が明らかにしてなっていないのにコメントはできないなど、「卑怯者」が子供じみた言い訳をしているが、違うよ。この問題のセントラルドグマは、「体を使って」発言にある松本人志のフェティシズムについてだよ。これは8年前ではなく、ごく最近テレビの番組で松本人志が発言したコメントである。今回の性加害疑惑は、この「体を使って」発言を中心とする、フェティシズムのアバウトの幾何の領域に存在している。

 

事実関係をどうやって僕たちが知ることができるのか。やっぱり、裁判しかない。事実無根って言っているエリアがどの辺りを指しているのかわからない。飲み会があったということは事実じゃないですか?そこから先の性行為の同意・不同意だったのか、松本さんが女性に対していろんな言葉を投げかけた、それが事実かどうか、真実を知るためには裁判しかない。

 

「裁判で真実をハッキリさせて欲しい」

 

真顔でこんなことを言っている
松本人志直系の後輩吉本芸人がいる。

 

この国の最大のパラドクスは、エンターテインメントにある。とりわけこの国のお笑いの芸人には、世界のスタンダップコメディのような、思想もなければ、観客との対話もない。この国の固有の風土習俗である神道、アニミズム、そしてフェティシズムという、インテグリティな塊が、対等であるべき、人と人、心と心の関係性が構築できない。この国の人間は、どちらかが上で、どちらかが下でなければ、心の平静を保つことができないのだ。松本人志という上に対して、誰も声を上げることができない。対等な人間であるにも関わらず、お笑い芸人たちは、松本から目を逸らし、全て制度や機構の責任に転嫁する。こんなもの、松本人志に向かって「松本さん、事実はどうなんですか、本当のこと言ってください。」「強引な性行為は無かったんですか、もしあれば事実を明らかにして率直に謝罪した方がいいですよ」と言えばいいだけののことを、「卑怯者」たちはワイドショーのコメンテーター席に座り、いつものようにメガネを取り出しては、法的措置やセカンドレイプなど聞きかじりの専門用語で退屈なコメントを繰り返しているが、それを知的な行為とでも思っているのであれば滑稽としか言いようがない。

 

俺たちが誇る「漫画」のヒーローはな、

普段はどうしようもなく優柔不断で

臆病でかまわない。

けどな、

いざという時は必ず立ち上がらなければいけないんだ。

それが漫画の真骨頂だ

それが俺たちが誇る漫画のヒーローだ。

 

だからこそ、普段なんの役にも立たない、お笑い芸人にも、少しばかりの「表現の自由」が分け与えられている。だが、この国の吉本芸人やジャニーズタレントは、普段役に立たないし、いざという時にも役に立たない。それどころか、重要なポイントで物事の本質について隠蔽を図る。新型コロナ禍においても、この国を混乱させ疲弊させ、最悪の事態を呼び起こしたのは、感染当初での椎名林檎一万人ライブであり、6000千人6時間のK-1イベントである。これさえなければ、無理のないピークコントロールが可能だったはずである。そして東京オリンピックでは、アスリートの方から誰一人中止の提言が出てこない。この国の人間は、とにかく娯楽が我慢できない。確かに松本人志は、笑いの天才である。だが、そのフェティシズムを背景とした「嘲りの笑い」が、この国の「いじめ」問題を拡大再生産させた張本人である。松本の「いじり」のメソッドは、いじめっ子たちの最高のバイブルとしての機能を果たしてきた。今回の性加害疑惑は、そのフェティシズムの延長線上にある。そもそも、「体を使って」発言は、松本人志のフェティシズムについての自白である。このフェティシズムのアバウト領域の中で、今回の問題を見れば決して「裁判」云々の責任逃れのような発言は、決して生まれることはない。吉本芸人やジャニーズタレントの「卑怯者」たちは、この国のエンタメを支配している。今回の件で松本人志という「審査員」が、エンターテインメントの世界から退場することになったのは、エンタメの神様の最高のプレゼントであり、新たな世代の芸人やアイドルたちは、この絶好のチャンスを最大限に活かし、世界に通用するオルタナティブなエンタメ表現を志すべきである。