誰もがみんな、「嘘」をつきはじめた。

 

吉本芸人の対応はジャニーズタレントとまるで同じ。まるでジャニーズ問題のデジャブを見ているようだ。

吉本興業と松本人志は事実無根、ナイナイ岡村は、「そこに女性がいたことは、1回もないんですよ」「だから本当にわからないです。僕なんかまったくわからないです」

たむけんは、「女性を呼んで飲み会を設定したことはあるが、それ以上の目的はなかった」などなど。どうやら吉本芸人の周りには、女性は存在せず、そこに女性はいても、下心などまったくないらしい。

 

だが、こんな「嘘つき」連中のことはどうでもよく、私たちが侵入しなければならない「嘘」は、「嘘つき」の嘘ではなく、告発者の女性の、真実の言葉でつく「嘘」である。

 

〈今日は幻みたいに稀少な会をありがとうございました〉〈松本さんも本当に本当に素敵で〉

 

この日起こったことが、不同意での性暴行であったとしても、逆に本当に素敵な時間であったとしても、この文章には真実性は無くまるで作文だ。

人は現実に起こったことを、どれだけ忠実に書こうと思っても、文章は書いた端からフィクションになってしまう。言葉を選んで、という段階ですでに現実そのものからはかけ離れた作文になってしまう。

 

だが、その作文が完全に嘘/フィクションなのかと言うと、それはそれで彼女が脳内で作り上げたものを描写しているわけだから、彼女の要素はしっかり詰まっている。

 

人が書く以上多かれ少なかれ脚色、改ざん、物語化は避けられないのである。言語学におけるラングとパロールの関係性である。

彼女自身、心の奥底をそのまま書くことはできないし、反対にどんなに自分自身を隠そうとしても隠しきれない。つまり、彼女自身は残存と喪失との間で、起こった過去とこれから起こる未来についての「欠片」をかき集めたものがこの作文である。真実と嘘とは相対的関係にはない。それどころか、相互に平行して走るレールのように不即不離の関係にあるのだ。だから、嘘の達人は嘘になるだけ多くの事実を取り込む。

 

「世の中には、「詩」によってしか解決できないものがある」ー学生時代から、法制の豆知識を暗記で詰め込んできた弁護士や裁判官に、人間の「性」の問題など手に負えるはずがない。「性」に正論や抽象論は存在しない。100人いれば100通りの性が存在する。今回の事例は電車内の痴漢事件でも、路上強姦事件でもなく、真実と嘘が明滅する非常にセンシティブな人間ドラマであり、いくら六法全書を覗き込んでもそこに正解はない。つまり、舞台が違うんだよ。同意不同意の判定など、裁判所で決着するはずがない。なぜなら誰もがみんな、「嘘」をついているからだ。この問題はこの国の人間の深層に巣食うフェティシズムを主題として、大きなアバウトで議論を展開し、この国のヒューマンライツを初めて起動させる最大のチャンスであった。裁判所に今回の告発者の女性の複雑な苦悩はおそらく理解出来ない。そもそもこれは法的マターではなく、演劇の領域で、それぞれのキャストがメソッド演技で物語/最適解を作っていかなければならなかった。このまま、裁判に進めば誰も救われない泥沼に全員沈むことになる。