まず大前提として

松本人志が凶悪な性犯罪者だとは、誰も言っていない。

松本人志自身が勝手に問題を誇張し複雑にし、勝手に霧の中を彷徨っている。

 

週刊文春も、告発者も、マスコミテレビも、吉本興業も、視聴者も、そして何より告発者も、一人の女性に対して、人としての尊厳を無視し、まるでモノのように扱う松本人志の思想核にあるフェティシズムに対して異議を申し立ているだけなのである。

このことで大きな被害を被り、右往左往しているのはスポンサー企業と松本の家族くらいである。

 

松本が自身のフェティシズムの何が問題なのかということに真摯向き合い、今後の新たな表現活動についてのビジョンを示せは、この問題はこんな大事にならずに、すんなりと収まっていたはずである。もちろん、告発者に対しては謝罪と共に、相応の慰謝料は必要だが松本にとって莫大な金額には決してならない。

 

つまり、この問題はジャニー喜多川氏の性加害問題とは全く次元が異なる。そもそも性加害という刑事、民事どちらにしても裁判で争う犯罪事件ではなく、人間のフェティシズム、とりわけ天才のフェティシズムの境界という人権をテーマにした壮大な命題なのである。それをこの国のマスコミメディアや責任逃れのコメンテーターたちによる、裁判、裁判の大合唱で、松本人志がとちくるってしまった。こんなもの全然法的マターでも何でもない。

 

決して弁護士でもない私のような人間でも、松本人志と告発者、文春、テレビマスコミの中心に立てば、四方納得する帰結を得ることなど3日もあれば簡単に出来る。もちろん、もっと立派な人間であれば

もっと早く出来るのかもしれないが、重要なのはそれぞれの立場において、今後の表現活動にどう活かすか言うことになる。もちろん、松本人志のお笑い表現の変革も重要だが、やはり最も重要なのは、告発者の今後の人生について、どう生きていくかという希望の観点であり、告発者自身も今後の生き方を見直す契機とすべきである。

 

性の表現というのは、その「キワ」が面白いというのは理解できる。男性器を女性器に挿入し、お尻を振るだけなら猿と同じである。そういう意味ではフェティシズムやロリータなどの世界観に対して憧れを抱いているのは松本だけではない。そして、その性癖を転換することは極めて困難であり、その性的願望を理想とし、その実践を貫く覚悟があるのであれば、まずは離婚し、子供たちとも決別し、一方で自身の芸術的表現に関しては、お笑いのみに一極集中し、社会的なコメントや政治的な関係性、企業CMなどを一切経つことができれば、今後の松本の性的領域におけるフェティシズムは成立することになる。個人的な性的フェティシズムと人権概念は決して対立しない。双方が成人で、性的嗜好性が共有出来るのであれば、DSであれ、SMであれ性の表現は全く自由である。

 

反対にそれが堂々とできないのであれば、ここは潔く一旦「引退」し、自己の欲望を抑え、社会や世間の目を配慮し、一人の良き家庭人として、穏やかに平凡な人生の終幕を過ごすべきである。それがお笑いやエンタメ業界だけではなく、この国の社会に蔓延する差別やいじめの膜の脱構築においても最良の選択であると言える。