松本人志だけがいない世界

 

数年後、ある小学校で

「学校でいじりはありますか?」という質問すると、

一人の子どもは、

「ないですよ。むしろ、なんでいじりが起きるんですか?」

と答えた。

そしてほかの子どもたちにも質問すると、

「いじりって何ですか?」

と声を揃えて答えたのだ。

 

 

今、この国で「いじめ」を消滅させる

最大のチャンスがやってきた。

大人の社会はもうどうにもならない。

まずは、小学校から変わっていくはずだ。

 

テレビから松本人志が消える

素晴らしい未来だよ。

もう大人たちが面白いことを勝手に決めるなよ。

もう大人たちが勝手に退屈を決めるなよ。

心配しなくても、

子どもたちは、子どもたち自身の力で

オルタナティブな笑いを作っていく。

 

天才松本の笑いが高度な笑いというのは、

松本自身の勘違いだった。

だって女性たちは笑わないで被害を訴えだした。

ほんとうに惨めな末路だよ。

結局、松本の笑いは世界には通用しなかったし、

映画にも、演劇にも展開できなかった。

なぜなら、松本の笑いには対話/ダイアログがないからだ。

松本の笑いには対等という概念がない。

いつもそこにいるのは、

ホムンクルス

つまり、モノ/人形にすぎない。

 

フェティシズムだよ。

松本人志がこの40年間この社会に張リ巡らせたは

フェティシズムという膜だった。

そして日本人の心に、松本人志が少しづつ沈澱していき、人間を忘れ、対話忘れ、モノローグなオチとテンポで

女性を嘲り、弱者を嘲り、被害者を嘲り、

大好きな差別を楽しんできた。

 

松本ロスなど言っている人間は、いっしょに消滅すればいい。

社会に必要ない。女性をモノとして扱う人間を

擁護するような人間は社会に入れてはいけない。

 

この国の笑いという芸術は、

フェティシズムの笑いからドラスティックに転換していく。

M−1で評価されなかった、

松本人志が評価しなかった、

「見せ算」がこれからの笑いを引っ張っていく。

なぜなら、「見せ算」は世界に通用する笑いだからだ。

「見せ算」はクラマタのバラだ。

世界にはこの作品を評論できる観客が必ず存在する。

 

もうすぐ、松本人志だけがいない世界がやってくる。

ずっと夢見てきた瞬間が訪れるんだよ。とても、素晴らしい瞬間だ。

 

 

 

 

 

Ⅰいじめ問題における「いじり」概念の総括

 

 

 

私たちがやるべきは、

松本人志の性加害裁判の行方の予測ではなく、

「いじり」といういじめ犯罪の総括についてである。

 

最近では、人の容姿をイジるようなネタは「やらない」と宣言する芸人が増えている。ある女芸人は、容姿ネタって、どんどんウケなくなっていってるなっていうのを劇場でも、すごい肌で感じてたと証言する。

 

だが、この国の容姿差別の根底に沈澱するフェティシズムの根は、見えないところで深く広く張っているのが現状だ。「いじり」という表現は、もともとバラエティ番組やお笑い番組の中で使われていたもので、この国では親しみの表現として認識しているが、「いじり」は容易にエスカレートし、「いじめ」になっていても、親しみの表現だという認識が「いじめ」をカムフラージュしてしまっている。さらに、「いじられキャラ」として固定化されることで、その役割から抜け出せなくなり、その状況が長く続くと自死にまで追いつめられる。こうした「いじり」の背景には、対立を嫌う同調圧力の国民性の土壌があること、そして最も重要な視点として、この国には「いじり」を笑いにすれば、ヒーローになれるメソッドが存在することである。もちろん、世界中どこの国でもいじめは存在するだろう。だが、「いじめ」を「いじり」という言葉に置き換え、周囲に笑いを起こせばヒーローになるような陰湿な暴力のフォーミュラを、マジョリティに容認している国など存在しない。そして、そのカリスマが連日テレビを支配し、「いじり」のメソッドを公開し、テレビマスコミ、企業、学校教育、政治行政に至るまで、その人気や影響力は決して無視できない。

 

教師が子どもたちをいじったり、子どもたちの「いじり」にカモフラージュされた「いじめ」を可視化できない。「いじめ」は、軽微なふざけやからかい、冗談などから、明らかに刑法に触れるような暴行、傷害、恐喝などに至る幅広い行為が含まれているにもかかわらず、逸脱性の判定が不明確であること、多くの「いじめ」は中間のグレイゾーンで発生していること、そして何よりもやっかいなのは、加害者の加害意識が希薄化していること以上に、加害者をヒーローにするメソッドバイブル存在することである。

 

現代の「いじり」の役割として、「いじめ」の存在が教師や親から見えにくくなり、大人にとっての可視性が低下させている。これまでの「いじめ」は、相手の弱点や環境要素のマイナスの側面がスティグマにされたが、現代の「いじめ」では、真面目さや、正義感の強さ、成績のよさなど、本来はプラスの側面もスティグマにされている。つまり、正義を発動することは空気を乱すものとされ、ヒューマンライツが起動しない。歯止めが消失していることで、「いじり」という免罪符により、陰湿で残忍な方法が深く沈澱し長期にわたり、「いじめ」の本質がカモフラージュされ、現代の子どもの衝動に対して抑制をかける力と、相手の痛みに対する共感能力が失われてきている。松本人志の「いじり」のメソッドとスマホさえあれば、誰でもが加害者になれる。加害と被害の立場の入れ違いが起こる場合もあり、昨日までの被害者がターゲットの変化にともなって加害に回る、被害者が、さらに弱い子をいじめる場合もある。そして、いじめる側、いじう側が集合化していること、これは旧来のいじめの形から、加害側に中核となる者がいる場合でも、周囲を巻き込んで観客を形成し、クラス全体で1人を攻撃する。

 

「いじめ」の形態は複雑に深化しているが、その中心に変わらず存在するのが、松本人志の「いじり」のメソットである。その松本人志の決してすべらない「いじめ」のドクトリンは、最高バイブルなのである。この国の松ちゃん面白い、さすが松ちゃんというエントロピーたちは、自己内在する差別性や排外性を認識できない。「色」なのか、「形」なのか、なにが重要なのか解らずに、目の前の「笑い」に反応し、チョコチョコした動きだけで「虫」だと反応する「無意識のカエル」と同じだ。

 

ブサイクな女の子に、ブサイクと言えば笑いが起こる。それは「差別」が面白いからであり、楽しいからだ。これはレイシズムなどの人種差別とは位相が異なり、「いじり」は、この国の固有の楽しい、面白い、人権侵害の形であり、いわばエンターテイメント/娯楽としての差別や人権侵害だと言える。考えようによっては、これは「差別」の最高形態であり、日本、あるいは日本人の闇は想像以上に深い。もちろん全てが松本人志の責任というわけではなく、それを受け入れ実行しているのは、この国の普通の人間たちなのだから。

 

松本人志を裁くということは自らを裁くということでもある。「いじり」という得体の知れない化け物に40年間支配され続けたこの国が一体どうやって国家や民衆の尊厳を取り戻すことができるのか正に正念場である。もし、ジャニーズもこのまま、吉本もこのままということであれば、日本という国は、民主主義を名乗らない方がいい。それはもはや権威主義の国家である。それもプーチンや習近平、金正恩などの独裁者の権威にではなく、松本人志やジャニーズタレントの権威にすら、ヒューマンライツが起動できないのであればもうどうにもならない。まあ、おそらくどうにもならないであろう。この国の人間は何でもかんでも法律に頼ろうとするがそれは本来の法治主義とは異なる。法典の力だけでは決して権威や権力に対峙することはできない。

差別と戦うということは、笑いを自制すること、つまり我慢することである。しかし、この国の人間は娯楽を我慢できないということは、新型コロナ禍でよくわかった。それなら、もう次世代の子どもたちの期待するしかないということになる。