『関与を全部排除するというのはかえって信教の自由とか、信者さんを差別することになるんじゃないか』ということは言ってもらいたい」と呼びかけた。 さらに自身が出演する情報番組なども「一斉に統一教会バッシングになっている」と指摘。「もちろんダメな部分はダメなんだけど、政治家側も〝臭い物にふたをする〟みたいな感じで、全部排除っていうのはちょっと気持ち悪さを感じてる」と感想を語った。

 

 

この国は、これを機会に統一教会だけではなく、

宗教そのものを一旦全部排除し、デフォルトにした方がいい。

そして、日本独自の「ライシテ」を再構築すべきである。

 

 

相変わらず口当たりはいいが、薄っぺらなレトリックである。日本にもフランスなど先進事例を参考にカルト規制法が必要だとの声も上がり始めているが、とにかく問題の表層ばかり追いかけては大はしゃぎする。そしてしばらくすると、スタンドプレイに我慢の出来ない橋下氏や爆問太田、三浦瑠璃氏のような、お笑い系コメンテーターが知性派を装い、この国の人間のはしゃぎぶりを諫める。

 

この国は、これを機会に統一教会だけではなく、

宗教そのものを一旦全部排除し、デフォルトにした方がいい。

 

そして、日本独自の「ライシテ」を再構築すべきである。

 

日本語ではこれまで「非宗教性」「世俗主義」「政教分離」などの訳語があてられてきたが、「ライシテ」は、国家の非宗教性や宗教の自由を含意するのみならず、広く 人権保障や表現の自由にかかわりうる概念であり、近年ではフランスのナショナル・アイデ ンティティとして再定位される一方、政教関係や人権問題の国際比較のツー ルにもなりつつある。

 

今回の事件を受けて、"カルト宗教"を規制するための新たな法律を制定することについて、フランスの"反セクト法"(人権及び基本的自由の侵害をもたらすセクト的運動の防止及び取締りを強化するための法律が注目されている。

 

フランス語の「セクト secte」 は、英語の「カルト cult」に当たり、「セクト的」としているのは、教義・思想・信条が規制の対象ではなく、反社会的(法規に反する)行動を組織的に行ったことが対象としている。

 

そもそもフランスは、日本とは全く異なる宗教観があり、社会的背景がある。古くはカトリックの国であり、フランス革命以降、信教の自由の問題に関して数百年間にわたって紆余曲折を繰り返してきた歴史が存在する。現代でも、中東やアフリカからの移民に多いムスリムとの社会規範の違いが、大きな社会問題となっており、シャルリ・エブド襲撃事件もあり、国家と宗教の関係、公共と私的における宗教活動のあり方や、学校における宗教教育等については、同国の社会論争の一大テーマになっている。

 

日本のように、軍国主義の基盤となった国家神道から、敗戦によって、天皇が「神」から一転して「人」になり、無神論的な過激な政教分離の「民主主義」になった国の人間に「信教の自由」や「政教分離」などの概念をいきなり理解するのは困難である。また、「政教分離」のさじ加減というのはどこの「民主主義国」でも独自の文化や歴史やメンタリティに応じてかなり違ってくる。

 

欧米諸国の場合、民主主義や人権思想を生んだ「西洋近代思想」の背後にキリスト教の神がいることを口にしなくても自覚している。西洋は不寛容な戦いを何世紀も繰り返し、ようやく彼らの宗教から抽出した普遍的な価値(自由、平等、友愛)を政治理念に掲げた。それは多様化する世界でのサバイバルと共存の知恵として世界中で広く認められつつある。

 

政教分離のさじ加減というのは近代世界を牽引した本家のキリスト教圏欧米でも、どんな教会が政治的にどのような勢力を持っていたかによって、その後の政教分離の建前と実際や、民主主義の落とし所は微妙に違ってくる。

 

世界の顔色ばかりうかがう日本の場合、欧米の民主主義の仲間になれるパスワードを持っていなければ、国際社会のなかで「空気を読めないヒト」とみなされてしまう。欧米民主主義を解読するキイとは、普遍主義の戦略上、彼らが敢えて口にしないキリスト教のルーツである。「信教の自由」や「政教分離」が一体何のかも理解出来ないが、民主主義国家として、あるいはその国民としてとりあえずこのキーワードを言っておかないと格好がつかないというのが実態なのである。

 

統一教会やカルト宗教は、そうした日本あるいは日本人の「ライシテ」に対する本質的な議論が展開されない国民性や日本人のアプリオリの隙をついてくる。橋下氏のような薄っぺらな主張では、この国はいつまで経っても、信教の自由や、表現の自由、そして、人権も民主主義もその表層的な言葉だけが踊り、その概念を獲得することが出来ないということである。