今回は少々中国史に関する内容です。
中国清朝は19世紀後半頃になると、欧州列強との阿片戦争(1840年)やアロー号事件(1856年)にも巻き込まれ末期的状況に徐々に追い込まれていきます。
前回アップした映画『The Last Emperor(最後の皇帝)』でも描かれていましたが、やがて国内では中華民国が成立し、国外からは欧州列強のイギリスやフランスの植民地政策、所謂、帝国主義の煽りを受けていく時代です。
その様な状況下でも、大陸からは多くの商人が一攫千金の夢を見て、米・砂糖・茶葉・樟脳・木材の商いで台北大稻埕(迪化街)と艋舺(萬華)付近にいました。17世紀と18世紀の台湾の中心地は台南でしたが、19世紀後半には台北へ移りつつあったのです。
そして台湾の宗主権を持つ清朝がその権利を損失しないために、清朝居留民の保護と防衛の目的で築城したのが『台北府城』です。東西南北に門と城壁を構えたのです。(写真中央、赤線が府城範囲と門の位置を示す)
この中は城中(城内)と呼ばれていましたが、衙門(ガモン)と呼ばれる各種行政機関もこの中に設置されていました。(写真上段左側が布政使衙門跡碑)
文献によると城内の東西南北一辺1.4km、高さ5mの城壁と東西南北に門が築かれていたそうです。ワタシはジョギングがてら測ってみたら確かに1.4kmに近い距離でした。
残念ながら城壁と西門は日本統治時代(後藤新平)に都市計画区分のために撤去されましたが、東南北門は修繕されたものが現存しています。
ちなみに、撤去された城壁の一部は下水道設備に再利用されており、今でもその痕跡の一部を見ることが出来ます。(写真下段、中央)
歴史好きなワタシは、17世紀以降(つまり、明の遺臣鄭成功がオランダ東インド会社を台湾から駆逐して以降)の台湾の歴史を最近お仕事の合間に勉強始めました。色々なことが分かってコレが実に楽しいのですよ。