『台北府城』を周回ランニングしてみた! | 台湾で起業して頑張る中高年オジサンの徒然

台湾で起業して頑張る中高年オジサンの徒然

天安門事件(1989年)には北京に駐在、その後、広州、北京、シンガポール、台北、上海と中華圏を30年間渡り歩き、2019年9月無事にサラリーマン定年退職。これを機に台湾台北で起業、第二の人生を奮闘中。中華圏ベテランオジサンの目線で見た日々について綴ります。

今回は少々中国史に関する内容です。

中国清朝は19世紀後半頃になると、欧州列強との阿片戦争(1840年)やアロー号事件(1856年)にも巻き込まれ末期的状況に徐々に追い込まれていきます。


前回アップした映画『The Last Emperor(最後の皇帝)』でも描かれていましたが、やがて国内では中華民国が成立し、国外からは欧州列強のイギリスやフランスの植民地政策、所謂、帝国主義の煽りを受けていく時代です。


その様な状況下でも、大陸からは多くの商人が一攫千金の夢を見て、米・砂糖・茶葉・樟脳・木材の商いで台北大稻埕(迪化街)と艋舺(萬華)付近にいました。17世紀と18世紀の台湾の中心地は台南でしたが、19世紀後半には台北へ移りつつあったのです。

 

そして台湾の宗主権を持つ清朝がその権利を損失しないために、清朝居留民の保護と防衛の目的で築城したのが『台北府城』です。東西南北に門と城壁を構えたのです。(写真中央、赤線が府城範囲と門の位置を示す)


この中は城中(城内)と呼ばれていましたが、衙門(ガモン)と呼ばれる各種行政機関もこの中に設置されていました。(写真上段左側が布政使衙門跡碑)



文献によると城内の東西南北一辺1.4km、高さ5mの城壁と東西南北に門が築かれていたそうです。ワタシはジョギングがてら測ってみたら確かに1.4kmに近い距離でした。


残念ながら城壁と西門は日本統治時代(後藤新平)に都市計画区分のために撤去されましたが、東南北門は修繕されたものが現存しています。


ちなみに、撤去された城壁の一部は下水道設備に再利用されており、今でもその痕跡の一部を見ることが出来ます。(写真下段、中央)


歴史好きなワタシは、17世紀以降(つまり、明の遺臣鄭成功がオランダ東インド会社を台湾から駆逐して以降)の台湾の歴史を最近お仕事の合間に勉強始めました。色々なことが分かってコレが実に楽しいのですよ。