セクハラ
パワハラ
マタハラ
アルハラ
モラハラ
・・・・・・・・・・

それぞれの意味と定義もしっかりと理解しないまま、言葉だけはやたらと目や耳に飛び込んでくる。

自分の身の回りでも思いつくところがある。
少し前、一緒に働く女性に対して気を遣う意味で「独身の女の子だから、そのあたりも配慮してあげないとと思う」と第三者へ話したところ、「西野さん、それってセクハラですよ」と言われ、驚いた。
これも少し前、長年の友人がパワハラで体調を崩し、務めていた会社を辞める事に相談を受けて、背中を押した。
息子の学校では、先生がやたら我々保護者に対して”構えている”事を感じ、話したいことも話せない空気に違和感を持った。(保護者からの意見や指摘を恐れている空気)

たぶん、各種のハラスメントは昔から当たり前に社会に存在してきたものなのだろう。それが良い悪いではなく、事実として存在してきた。
それが近年大きく問題となって取り上げられ、そして、たくさんの新しい言葉ができ、社会的な問題となって来ている。
そして、様々な配慮や優しさまでが、いっしょくたになって、この社会から姿を消しているようにも思う。

弱い者は守られるべきだと思う。
赤ん坊ももちろん、子ども、障害のある人、高齢者、等々。
社会のシステムとして、そういった人々を守る制度は当たり前にあってしかるべきだと思う。一方で、システムとしてある前に当たり前に社会がそういった意識をもっていれば、そんなシステムも必要ないのではあるが。(シルバーシートなんかも、本来はなくて良いはず。当たり前に座席を譲る倫理観が日本人には元々あるはずだった。女性専用車両というのも、満員電車で小さな女性が近くにいる際には全力をつくして、もたれないようにしている自分としては、知らずに飛び込んでしまい、しばらくしてから違和感を感じ、恥ずかしい想いをしたことが何度もある)

おかしくなってきたのは、時代の流れやシステムの中で、”権利”というものを声高に訴えることが認められるようになってきたからではないか。
”権利”には”責任・義務”がともなう。
”責任”をもち、”義務”をまっとうしている一方で、”権利”を侵害されているのであれば、もちろん、そこは社会としてその権利を守ってあげるべきだと思う。
しかし、”権利”だけを主張しているとすれば、筋が違ってくる。
”権利”だけを叫ぶ人が増えてくると、おかしな社会になっていく。

「時代の流れ」という一言では片付けてはいけないと思う。
時代を超えた真理というものがあるはず。そこを議論することは必要な事だと思う。

「子どもの権利だ、権利だと騒がれるけど、一般に日本でひとつだけ権利が守られていない。それは、子どもが叱られる権利があるということです。」(グスタス・フォス)

子どもの”権利”を守るために、大人が言うべきことを言わなくなることだけはさけないと、大変なことになると思う。