3月29日、ある一つのパン屋の歴史の幕が閉じた。自分にとって代えなんて存在しない、最も、最も重要なパン屋だ。自分に本気でパンに向き合い考える、という機会を作ってくれたパン屋。美味しいかどうかも重要であるが、小麦粉についてなどそれ以外のことまで考えさせられるのは、パン屋としてはこの店以外考えることは少ない。
パン職人として、というより大きくパンと切り取った時の全般に渡る好奇心旺盛な意欲は他の追随がないほどではないか、と思う偉大な人・高橋幸夫氏。
彼を突き動かしたのは、好奇心。日本の小麦を救いたいなんて壮大な想いは多分なかったに違いない。しかし間違いなく国産小麦粉を使うパン屋の第一人者であり、高橋氏なくして日本に於けるパンという分野の開拓と成長はなかったであろうことを考えると今後まず語れなくなるだろう。
…前置きが長くなった…伊勢原の名店「ブーランジェリー ブノワトン」が閉店する。
2009年8月4日、パナデリアのメール通信で8月2日(正しくは「平成21年8月1日(土曜日) 午前11時00分」)にて高橋幸夫氏が41歳という若さで亡くなった事を知る。モニターを前に、何を書いているのか理解出来ないくらい錯乱した。気付いたら嗚咽を漏らし泣く自分がいた。受け入れられない…信じたくない…何かの間違い、デマであってほしい、と強く思った。しかしデマではなく、ホームページで告知が間もなくして入った。その後、閉店などの情報流れる…この後、亡くなった事を受け入れたくない自分は年末まで行かずにいた…しかしそれもおかしな事だ、と思い年末ギリギリに足を運ぶ。
お店は日常的な、そう、いつものブノワトン。なんだ、やっぱり高橋さんいるんじゃない?と思ってしまうくらい変わらない空気が流れていた。ただ違うとしたら、パンの売り切れが異常に早くなっていて、御客さんによるカウントダウンが始まっているんだな、ということを実感する。
今年に入り、ブノワトンに行っても買えなかったり、三月に入ったら開店一時間で売り切れる日々が続く異常事態になってしまった。
最後の三日間、驚く事に店側が仕掛けてきた。3000円以上の買い物をした方にお皿のプレゼント…そして店から消えていて既に語り草になっていたビッグプレゼントでありサプライズなクロワッサン・アンティークの復活を告げた。盛大に最後を飾るつもりかな、と感じた。
未だ実感が湧かない、絶対的に受け入れられない、という気持ちがあるが、最後は見届けたい、と思い3時半起き始発に乗って足を運んだ28日早朝。タイミング良く列の初めを頂いた。寒かったこの日の列は40人ほどで、それほど長くはないが皆一様に穏やかな表情なのが印象深かった。開店前は列に並んでいた方々と話をする、という他ではそんなことしたこともないというのに、妙に盛り上がる。知らない人達が見たらきっと知り合いに見えるだろうな、と思えるくらい賑やかに会話が進んで、感傷に浸ることなどなかった。開店前、高橋さんの奥様から挨拶があった。そして8時半開店店の雰囲気は良く、お客さんが一杯いるというのに殺伐とした雰囲気はなく、和やかで明るく活気があった。
高橋幸夫氏、そしてブノワトンの歴史は決して順風満帆ではなく、寧ろ試行錯誤だったのではなかろうか、と今は思う。国産小麦粉にてすっかり味も安定しとても美味しいパンが食べられるようになったというのに、自らが起こした「
湘南小麦プロジェクト」によって栽培された小麦に切り替えた以降の批判的なコメントを目にする機会が増えたのを見た際感じた生みの苦しみは、今思えば微笑ましい出来事のように感じる。今はすっかりパンも安定し、国産、いや目指していた地産の小麦粉にて美味しいパンが食べられるまできたのだ。…なのに、これからという時に貴方は天でも美味しいパンを作ってほしいと招かれてしまった…
高橋シェフの作ったパンは次の世代、そして撒いた種として教え子達である箱根の『麦師』に、そして今年いっぱいはブノワトンの現在のお店の場所でオープンする(のちに平塚のミルパワー工場の敷地内に移動予定)『ムール ア・ラ ムール』に引き継がれていく。我々はそれを食べられる幸せがまだある。そう思うといつまでも残念勝手もいられない。それともう一つの撒いた種「湘南小麦」という功績、遺産を業界がどう活かすか、どう伸ばすか、も見守って行きたいと思う。
これまで本当に有難うございました。ブノワトン、そして高橋シェフに出合えたことは自分の人生において財産です。天の方々にも美味しいパンを焼いてあげてください。そちらに行った時の僕のささやかな楽しみです。
クロワッサン・アンティークも勿論凄かったが、最も我が家で愛したパンは、夏野菜と手作りベーコンのグリルバケット…惣菜パンだけど、その凄さをこれ以上に感じられたパンはサンドイッチ含めてもないくらい野菜そのものを美味さを引き出し、それに合わせたソースの絶品さ、それらを支えるバゲットの渾然一体となった美味しさに感動したパンでした。
最後に、奥様である高橋郷子さんがキリッとしたいつもの姿で変わらず接客されているのを見れたのは良かったし、ホッとしました。10年と10ヶ月、お疲れ様でした。今更ですが
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
Tsutomu