これから歴史のことを書いていこうと思うが、左傾化していた日本は反動から右傾化しはじめている。何かを語るならば自分のスタンスをハッキリさせておかねばなるまい。
ネットの世界には「ネトウヨ」とかいう現実社会ではハッキリ言えない輩が沢山いる。逆に現実社会では平和や環境問題を訴えるという大変よろしい行為ではあるものの、解決方法を考えない為に「お花畑」などと呼ばれる輩もいる。
そういった意味での私のスタンスは「保守的平和主義者」である。
保守といっても天皇陛下万歳ではないし、平和主義といっても自衛隊を解散させろなどとは言わない。でも天皇陛下は象徴としていてほしいし、軍隊は今のところ必要ないとも思う。
え?現状維持なだけじゃないかって?だから保守なんだよ、ホントは(*´-`)
日本の左右はねじれ過ぎ。
母方の実家が神社だからか、保守的ではあるのだが、歴史を学べば学ぶほど、日本という国の危うさを感じてしまう。
島国で民族のばらつきが少ない分、団結力があり国力が向上しやすく愛国心が醸成されがち。その反面視界が狭く、排外的で暴走することがある。
この愛国心というものは厄介で、私の大好きな喜劇王チャップリンもアインシュタインもジミヘンもバートランド・ラッセルも愛国心は悪魔だとか小児病だとか強烈な表現をしている。ナショナリズムが旺盛な時代に科学者、ミュージシャン、哲学者など、様々な角度から愛国者と言っている者の愚かさを評しているのだ。
更に、坂本龍馬の盟友であり、外務大臣として不平等条約改正を成功させた陸奥宗光も蹇蹇録で「これを用いる方法を考えないならば、しばしば国家の大計に反する場合がある」と言う。幕末稀代のリアリスト勝海舟も「憂国の士が国を滅ぼす」と言い、皮肉屋のマーク・トウェインは「愛国者と売国奴で国が真っ二つ。おまけにどっちがどっちだか誰にもわからない」と言った。
それもそのはず、過度の愛国心は国益に反するのである。これについては人のふり見て我がふり直すべきだ。韓国や中国の愛国心溢れる?人々を見る。他国に対して暴言を吐けば吐くほど愚かさを露呈し、嫌韓・嫌中という雰囲気を生み出す。アメリカでドナルド・トランプの様な人間が大統領選に出ること、これも恥ずべきことに感じる。韓国・中国・アメリカの良識ある人々が可哀想だ。
では、彼らが暴走する根拠は何か。
その問題の一つに「歴史観」がある。
近年、日本では自虐史観という言葉が定着し、歴史認識を改めようとする流れが生まれているが、どうも勢いが強過ぎて自国賛美の目線「自賛史観」になっている気配がある。
まさに愛国心がなせる暴走である。
文筆家の平川克美は「その人が何を言っているのかではなく、その人が何を聞き取ろうとしているか」を見ることが大切だと言う。
これはまさに至言だと思う。ここを見なければ今の情報過多社会で迷子になってしまうのだ。
例えるなら、同じ情報を提示していても、A氏は被害者の立場から聞き取ろうとし、B氏は加害者の立場から聞き取ろうとする。その後の両者の発言は同じ情報を語るにも大きく違った語り口になるといった具合だ。これをまず念頭において「語られている歴史」を見なければならない。
更にもう一つ…人は自分の定説が一度覆されると、それが真実だと思いがちである。信じていた異性に浮気疑惑が一度浮上すると、それ以降疑ってしまう。更に言うと、自らの異性観までも変わる場合がある。
信じていた男が浮気したかも→これからも裏切るかも→常に疑わしい→他の男の時も疑ってしまう→男はみんな裏切る
という論理は狭い世界で生きている人ほど作り上げやすい。これを歴史認識に置き換えると現状が理解出来ると思う。
自虐史観(おそらく作っている人達から言わせれば自国のやったことを反省する目線、自省史観)寄りに作られていた教科書や定説を否定する情報が一つでもあれば、人は今まで教えられてきたこと全てを疑い、元々醸成されやすい愛国心が暴走して自賛史観を生む。
事実を知ることと過剰に自国を賛美することは関係ない。事実だと思うことがあれば、教科書通りにしか歴史を見ない人に「こんな資料もあるよ」「こんな見方もあるよ」と教えてあげればいいだけの話なのだ。
自虐も自賛も日本人として誇れるものではない。
自国を守った人がいて、世界平和を願った人がいて、現実を見た人がいて、理想を描いた人がいた…。
そういったある程度の想像力をもって史料を精査し、理解に努め、分別と仁心を忘れずに発言する。
本当の歴史を追究し、自らの立場をわきまえる「自覚史観」こそ、もっとも理想的な歴史観なのではないだろうか。