キャッチャーミットをオーバーホールした。3月9日に発注し、7月31日に出来上がって戻ってきた。元号が平成から令和に変わった。
ウェブとベルト金具が交換された。捕球面の「あんこ」(中に詰められた綿)が大胆に取り除かれ、外周が真新しい紐で巻き直されている。本体の革の洗浄や着色はお願いせず、傷や汚れはそのまま残してもらった。
左手を入れる。手のひらとの一体感が生まれている。右手の拳で捕球面を叩いてみた。ぱん、と乾いた音がリビングに響いた。素手で包み込むような感覚がある。「ああ、ようやく」と思う。
そのスポーツ店は古い大規模団地の敷地内にあった。春先の暖かな日に、「グラブを修理・再生します」と大きく書かれた文字を目にした時、どうしてもミットを直したくなった。理不尽なほど強烈に。天からの啓示を受けたように。数年前に本人が亡くなった時にも、そんなこと思いもつかなかったのに。もう決して使うことのないあのミットを。
「香川モデル」はクローゼットの奥で牡蠣のように眠っていた。翌日、店に持ち込んだ。
*
1979年、香川伸行はバランスボールのような腹を揺らして春夏の甲子園で躍動した。手首の効いた柔らかなバットコントロールで本塁打を量産し、そのまま秋のドラフト2位で南海ホークスに入団する。
その年に中学生になった僕は野球部に入部した。運動好きの肥満児は正座ができなかった。3年間を五番手捕手兼スコアラーとして終えた。香川のようなわけにはいかない。練習試合にも出してもらえなかった。
高校でも野球を続けた。2年生になって正捕手になれた。打順は4番だ。つまり進学先は強豪校ではなかったのだ。
新チームになって初めての練習試合で、2打席目にスタンドインを打ってしまった。振ったところに球が来た。インパクトの瞬間に感触がないというのは本当だ。敵味方全員が驚いた。相手のベンチには中学の同級生、正捕手だったアキラ君がいた。最初で最後のホームランの思い出。
キャッチャーミットはずっと、一学年上のIさんの「お下がり」を使っていた。「このミット、験がいいんだぞ」彼はそう言って僕に譲ってくれた。Iさんは入部してすぐに正捕手になった人で、2年生になって自分のミットを「大矢明彦モデル」に新調した。
「お下がり」は使いやすかった。ポケットが深くて球の収まりが良く、ぴしっと気持ちの良い音が鳴った。深いオレンジ色で、ところどころにIさんの縫合の跡があった。
秋の大会で銚子商業にコールドで負けて(大川隆と片平哲也だ)、2年生でのシーズンが終わった。「お下がり」にも傷みが目立つようになった。僕もミットを新しくしようと思った。
どうして自分が「香川モデル」に決めたのか、今となっては全く思い出せない。1983年に香川は自身のベストパフォーマンスを残したが、世間は彼の野球の実力ではなく、膨張を続ける胴回りばかりに注目した。彼も彼で自覚的に道化を引き受けているように映り、このころはあまり好きになれなかったような気がする。
それに、既製品で十分だったはずだ。ただでさえ高価な硬式用のミットだ。建具職人の家庭で、経済的に恵まれているわけではなかった。それでも僕はオーダーメイドに拘った。若かったのだ。数社のカタログを取り寄せて検証した。
飯田橋の「聖地」までは一人で出かけた。3学期、中間試験休みの日曜日。外房線と総武線の各駅停車を乗り継いで約3時間だ。駅からは『報知高校野球』から切り抜いた地図を頼りに歩いた。財布にはお年玉と年賀状配達のアルバイト代が入っていた。
その野球専門店は緩い上り坂の途中にあった。間口が狭くて奥行きのある店だ。口の開いた段ボール箱があちこちで通路を塞いでいる。無数のグラブやスパイクが左右の壁に所狭しと並べられ、鈍い光沢を放っている。手入れ用のオイルの匂いが鼻腔をくすぐった。雨が降っていたが店は混んでいた。
店員に声をかけた。厚い生地のエプロンを着けた男性だ。彼は僕の話を聞くとオーダー用紙を持ってきた。そこに住所と名前と電話番号と、僕の左の手形を鉛筆で書きつけた。僕はずっと気後れしたままだった。
「3月の終わりには送れると思うよ」彼は言った。
*
8月1日の早朝に、急いで病院に行ってほしいと、実家の母から電話があった。81歳の父が心臓の疾患で5日前から入院している。
父はベッドに腰掛けて呆けていた。個室に移され、太いベルトでしっかりとベッドに拘束されている。深夜に突然暴れたと病院から説明を受けた。止めに入った看護士が軽いけがをした。
入ってきた僕をしばらくぼおっと見つめる。「仕事休ませちまって悪いな」小さな、掠れた声。「何にも憶えてねえんだ」
その日から退院する8月16日まで、ほぼ毎晩父に付き添った。病院と会社と自宅を廻る。1日200㎞くらい運転した。
僕が到着しないと父が寝ないので、午後8時半には病院に着くようにした。父が寝付くと仄暗い病棟の集会室でコンビニの弁当を食べ、ノンアルコールビールを飲んだ。看護士がやってきて、日中の父の様子を教えてくれた。
ストレッチャーのような細く低い簡易ベッドを窓際に置いて横になる。生まれてこの方、父と枕を並べたことはなかったと気付く。眠りが訪れるまで、薄暗闇の中で来し方行く末を思った。高を括って先延ばしにしてきたあれこれが、一気に現実となって押し寄せてくる予感がした。父の静かな寝息が聞こえる。
*
3月末に「聖地」から届いた「香川モデル」はフライパンのように固かった。ぽっかりと口を開けたまま、びくともしない。毎晩風呂場で蒸気を当て、タオルで巻いて布団の下に入れて眠った。木槌で何度も叩いた。しばらくして革は幾分柔らかくなったが、上手く「型」ができない。なにしろ「あんこ」が多いのだ。
エラーが増え、捕球時の音は鈍く、ミットのチームでの評判は低かった。「せっかく苦労して買ったのはわかるけど」エースが言った。「試合では使わないでくれ」
7月16日がやってきた。月曜日。千葉県予選の1回戦だ。第3試合だった。前の試合は船橋法典-銚子西という好カードで、法典の投手はのちに日ハムに入団した松浦宏明だ。ストレートがべらぼうに速かった。
快晴だ。ベンチに入ったのは午後1時半を回ったころで、太陽は中空に達していた。グラウンドキーパーの放水が作る淡い虹がきれいだと思った。試合は0-4で、あっという間に負けた。今となっては「異常に暑かった」という皮膚感覚しか残っていない。
父も他の親御さんたちとスタンドで応援していた。学業には全く興味を持たなかった父だが、僕が高校でも野球を続けることを喜んだ。教育熱心な祖母(家長で絶対的存在だった)は当時入部に激しく反対したが、父が私といっしょに土下座して折れたのだった。
この試合でも最後まで「お下がり」を使った。「香川モデル」はさすがに出せなかった。
*
退院前日の朝、父はいつものように5時台のテレビニュースを観ていた。ベッドの上で胡坐をかいている。スポーツのコーナーが始まり、前日に習志野高校が負けた試合を報じ始めた。僕も着替える手を止めて無音の映像を観ていた。
「お前、あの時のミットまだ持ってる?」と父が急に言い出した。僕が驚いていると、すっとイヤホンを外してこちらを振り返る。
「やっとレギュラーになって、東京まで買いに行ったやつ。いつまでたっても固くてよお。俺が木槌、作ってやったろう?」
少し、うれしそうな目をしていた。