花が散る | うたし日記3

うたし日記3

うれしい・たのしい・しあわせな日常を綴っています。

これは桜ではなく花海棠(ハナカイドウ)の花

福岡は昨日満開宣言がされましたが、
今日は昨夜からの雨が降り続き、
雷も鳴って先程まで激しく降っていました。

この雨で花が散って残念と思っているそこのあなた、
花が散るのは「風のせい」でも「雨のせい」でもないのです。

このお話を正観さんからお聞きしたのは、
二昔も前の吉野の水分神社で、
ちょうど境内の枝垂れ桜を見ながらでした。

このお話は「生きる大事 死ぬ大事」の中に書き残してくださいました。

 現在発売中の復刊{生きる大事 死ぬ大事」イーストブック(P69~)
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  こちらは終了した弘園社版の方です。(P35~)



一部をご紹介しますので、
お持ちの方は再読されてくださいませドキドキ

若い人は知らないかもしれませんが、
黛ジュンという歌手の歌に、「恋のハレルヤ」というのがありました。

「♪ハレルヤ 花が散っても ハレルヤ 風のせいじゃない」
という歌詞の詩です。

「花が散っても 風のせいじゃない」と言うのです。

こんなすごい(真理の)歌詞を書いたのは誰かと思ったら、
なかにし礼という作曲家でした。

この人は「よく分かっていた」人なのでしょう。

花が咲いたあと、数日して花びらが散ります。
どんな花でもそうです。
一生咲き続ける花はありません。

例えば桜の花。
桜の花を咲かせたあと、数日たつと”花吹雪”として花びらを散らします。

私たちは、何気なく、「ああ、この風が吹かなければ散らなかったのに」とか、
「この雨のせいで散っちゃうんだ」などと言ってきました。

しかし、よく考えてみると、そうではないように思えます。

桜の花は、咲いて何日かしたら自ら花びらを散らすことを
”プログラム”として自らの中に予定したうえで、花を咲かせたのでしょう。

”風が吹かなくても”雨が降らなくても”必ず桜の花は花びらを散らしたのです。
自らの意思で、自らの”プログラム”として。

私達にはそういう因果関係が見えずに、
桜の花が散る時に、風のせいに、あるいは雨のせいにしてきました。

以下略(続き読んでみてくださいね)

1967年発売のヒット曲
黛ジュン 「恋のハレルヤ」 1967
 

マジええ本です。
持っているのが初版本ですが1999年12月14日発行とあります。

物や言葉は時間とともに変化していきますが、
真理は何年経っても変わらないことに、
感銘を受けているところであります。



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それではまた明日ドキドキ
本日もありがとうございます。