【 国民のしつけ方 】(斎藤貴男著、集英社インターナショナル)


 以下は掲題者(「あとがきに代えて──生存のためのメディアリテラシー」)からの一部抜粋。


『 メディアリテラシーがなければ生き残れない

 英語辞典の最高峰と言われる『オックスフォード英語辞典』は2016年11月、恒例のWorld of the Year(今年の単語)に、「post-truth」(ポスト事実)を選んだ。

 英国のEU離脱や米国大統領選を語る際に多用された形容で、『世論形成において、客観的事実が感情に訴えるもの以上の影響力を持たない状況』を指している。「反~」を表す一般的な接頭辞「anti-」ではなく、「post-(~以後)」が用いられているのは、この奔流がこれからも長く続くというニュアンスだ。「post-truth」が英語圏に初めて登場したのは1992年とされるが、情報源としてのソーシャルメディアの台頭と、既存メディアの「事実」にこだわる報道への不信感の増大で、使用頻度が一気に高まった。
  
 嘘が罷(まか)り通る社会は恐ろしい。すでに日本でも英語圏同様、post-truthな政治および社会が到来してしまっている状況に、多くの人々は気づいているはずだ。情報を伝えるプロとしてのジャーナリストが改善に向けた努力を重ねるのが当然だが、今後は読者・視聴者の側もよほど情報の真贋を見抜く能力、いわゆるメディアリテラシーを磨かないと、生きていけない時代になりかねない。
 メディアリテラシーを丁寧に定義した文章を示しておく。


 コミュニケーションは人間にとって不可欠な営みであり、日常的な実践である。そのコミュニケーションを媒(なかだち)するのがメディアである。媒はコミュニケーションを成立もさせるし、断絶もする。私たちはともすればコミュニケーションを当たり前のできごととみなし、それを媒介するメディアの存在に注意を払うことはない。
 メディアリテラシーとは、そのようなメディアを意識的に捉え、批判的に吟味し、自律的に展開する営み、およびそれを支える術や素養のことである。端的にはメディアの読み書き能力とも説明されるが、能力・学力を個別の人間に実態的に備わった素質と捉えるのではなく、共同体における学習コミュニケーションによって個人の中に構築される思考と行動の様態だとする批判的検討が、学習理論などにおいて展開されてきており、ここでもリテラシーを能力ではなく営みとして位置付けておく。(武田徹ほか『現代ジャーナリズム辞典』三省堂)』


<感想>
 「post-truth」≒「感情に訴えるもの」(>「客観的事実」)による世論形成による、本来選ばれるべきではない候補者が選ばれることほど、恐ろしいものはない。メディアに翻弄されることのないよう、メディアを意識的に捉えて「メディアリテラシー」を高めた思考と行動を身に着けてゆきたい。

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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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