自白の研究
今村弁護士が自書(「冤罪と裁判」(講談社現代新書))で引用していた本を読んでみた。
「自白の研究 取調べる者と取調べられる者の心的構図」(浜田寿美男著、三一書房、1992年5月15日 第1版第1刷発行)より
『 第八章 否認力動を低減させる要因
第二節 やっていない犯行を認めることの非現実感
1 予想されるべき刑罰の非現実感
こうした現実の取調べの場に身をおいて考えれば「予想される刑罰」という概念がいかに空虚なものかが分かるであろう。Aの頭の中にあるのは、たったいま自分がさらされている「死の恐怖の取調べ」であり、「死ぬよりも辛いことでしたこの脅迫や拷問の取調べ」であって、それ以外のものではないのである。
同時に、私たちはここで先の主張の二つ目の錯覚に気づく。それは「予想される刑罰」と言うときの「予想」に関わる問題である。同じく「自白によって予想される結果」と言っても、実際に犯行を犯した犯人が予想するところと、無実の人間が予想するところとは当然異なってくる。強盗殺人で三人も四人も人を殺したということになれば、誰が予想しようと、いまの日本では死刑だろうという、その予想自体については大差ないかもしれない。しかし、その「予想される死刑」についての現実感はまったく異なる。実際の犯人ならば、まさに自分の行った犯行から予想されるものであるがゆえに、その「死刑」には実体的な感覚が伴う。これだけのことをしたんだから自分の犯行だとばれれば死刑だろうと実感的に予想せざるをえない。しかし無実の人間ならばどうであろうか。無実の人にとっては逮捕・拘留されて取調べられているということ自体が、非現実的なこととしか受けとめられない。第三者的な観念のレベルでは、自分に容疑をかける何らかの事情があって逮捕・拘留され、取調べられているのだと理解しているだろうし、またここで自白して自分の犯行だと言って、裁判でもそう認定されれば「死刑」だろうということも認識できるであろう。しかしそこに真犯人のような現実感が湧いてくるだろうか。無実の被疑者の視点に身を寄せて考えてみれば、「予想される刑罰」はただ単に論理的・観念的なレベルのことであって、実感的に身に迫ってこないことがわかるはずである。 』
やっていないことを自白する結果としての「予想される刑罰」が非現実的であるという。冤罪で刑罰に処せられた人の大半が罪のない自白であろうと思われるが、冤罪を救う今村弁護士のような方が増えることを心より祈念する。
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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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