劔樹人の「男のうさちゃんピース」 -5ページ目

<男の家事場> その16 「インテリアとしての役割。」






古いものを使うのはそれなり。









<男の家事場> その15 「未知なる素材の恐怖。」





世の中が、丈夫なコットンのTシャツみたいなガンガン洗っていい服ばかりならいいのに。












続いていくSTORY。






いま、私たちにできることーーーー。



と、言ってもチャリティか何かについてではなくて、Juice=Juiceの金澤朋子さんについての話題である。



もちろんチャリティも大切だ。


チャリティといえば、昔大阪で会社勤めをしている頃のこと。

昼休みに昼食を買いに行こうと会社の外へ出ると、すぐ前の交差点で黄緑色のジャンパーを着た若者たちが、恵まれない国への募金を大きな声で呼びかけている時期があった。

コンビニに行くにも、牛丼屋に行くにも、絶対その信号を渡らなければならない。
信号待ちをすれば、常に目の前に黄緑のジャンパーが並んでいる。
無視するのは心が痛んだ。募金しないわけにはいかなかった。

結果私は毎日毎日、条件反射のように、昼食の予算を削って募金をし続けた。



しばらく経ったある日のこと。ローカルニュースで募金詐欺が報じられていて、たまたまテレビを見ていた私はその目を疑った。
摘発されたのは、あの黄緑色のジャンパーを着たグループだったのである。

募金は、困っている人のところに当たり前にお金を届けてくれる、信頼できるところへしなければいけない。
そんな当たり前のことにようやく気がついたのだった。

人の善意につけこむ悪人はたくさん存在するのである。
東日本大震災の起こった時期、私はあの黄緑色のジャンパーのことをよく思い出したりもしたものだ。



震災の時、私の知り合いの人気ミュージシャンで、結構な金額を被災地に送っている人がいた。
ただ、SNSなどを一切やっていない人で傍目にはそれが見えないので、「お前は何もしないのか」と一部で叩かれていたりしていて、何だかとても気の毒だった。


声を上げることで多くの人を巻き込んで行動できる人も素晴らしいが、人知れず誰かのためになっている人もいる。
やりかたはそれぞれであっていい。

人の行いを見えていることだけでは判断してはいけないと、つくづく思う。
いい加減な批判はいけません。






話が逸れたが、金澤朋子さんの話である。


彼女は1月のある時期からハロコンを休みがちになり、普通の体調不良としてはあまりに様子がおかしいことにファンたちがざわつきだす。

主演ドラマがまもなく始まり、今年は武道館公演も目指すというJuice=Juiceにとっては大切な時期である。
私も不安で不安で、ことあるごとに「金澤朋子」検索をする日々が続いた。


一方で、Juice=Juiceは秋までに220公演をやるという過酷なツアーの最中でもあった。
屈強なメロコアバンドでもやらないようなライブスケジュールに、肉体的にも精神的にも無理を覚悟して挑んでいる状況であっただけに、かなともはもうJuice=Juiceを続けることが苦しくなっているんじゃないかと、よからぬ思いすらよぎった。



その後、金澤朋子さんは子宮内膜症という病気であることを公表。

松浦亜弥さんも患った、短期間での完治の難しい病である。
結局そのままあややは、事実上活動休止状態になってしまった。

しかし、かなともは「志半ばで夢を諦めたく無い」と、Juice=Juiceの継続を宣言してくれた。
Juice=Juiceに対するかなともの気持ちが全く失われていなかったことは、大きな救いだった。





数日後、私はかなともが病気の告白後初めて出演したJuice=Juiceのラジオの録音を、スーパーで買い物をしながら聴いた。

かなともはそこで、涙ながらに今の心情を語った。

「みんなには迷惑ばかりかけていて、いてもいなくても迷惑をかけてしまうのが悔しくて」

その彼女の言葉に、思わず私の目からもボタボタと涙があふれた。

奇しくも、玉ねぎを選んでいる時だった。
玉ねぎを選びながら泣いている男を見て、傍にいた主婦がギョッとしているのがわかった。玉ねぎを切る前から泣いている人間をはじめて見たのであろう。





運命は残酷すぎる。

何故かなともなのか。

何故今、今、この時にJuice=Juiceにこんな試練を与えるのか。

ラジオを聴きながら、できることなら、自分が代わってやりたいとすら思った。




ちなみにこのときの気持ちをナカGさんに話したら、
「えっ!劔くんが代わりにライブに出るってこと?」
と言われたが、そんなわけが無いでしょう。病気を代わってやりたいほうである。

かなともが欠席のときはおっさんが出てきて「私はローズクオーツ」…。
出る方も見る方も地獄である。




とりあえず、そのラジオにいてもたってもいられない気持ちになった私は、予定を変更してヴィーナスフォートで行われていたJuice=Juiceのリリースイベントにひとり向かった。



とにかく、かなともを応援に行かなくては。

握手会では普段、私は緊張のため「応援しています、頑張って下さい」と定型句を繰り返すbotと化すのだが、かなともだけには、伝えたいことがたくさんあった。


ラジオでの、メンバー、スタッフ、ファンへの感謝のメッセージに感動したということ。

Juice=Juiceは、何があっても今の5人であってほしいということ。

そのためなら、こちらはなんでも受け入れたいということ。


まとめるとそんな感じか。


握手の時間は短い。
でも、やるしかない。
私が今、かなともにできることは、それしかない。






ステージ上にはメンバーが並ぶ。
かなともは真ん中で、体調を考慮してひとり椅子に着席しての握手だった。



順番を待っていると、うしろからこんな声が聞こえた。

「なんだあいつ、真ん中かよ、めんどくさいなあ!!!」

本人に聞こえるかもしれないような大声である。
なんという心ない奴がいるのだと、怒りに震えながら振り返ると、それは赤い「金澤」Tシャツを着たヲタだった。

熱心なファンの、ある種愛情のある言葉だったのだ。
確かに、最初か最後にいてくれるほうが話もしやすいかもしれない。
とはいえ、誤解を生みそうな発言は注意するに越したことはないが。



そんなこともあったので、自分は慎重に言葉を選ばねば、と思い、何度も頭の中でシミュレーションをした。リリースイベントでの握手は1~2秒が勝負である。ビニール袋に入れた荷物を預け、ついに握手の時がきた。


ひとり目はうえむー。
「応援しています、頑張って下さい」
無事クリアした。

ふたりめは紗友希。
「応援しています、頑張って下さい」を言おうとした時、思わぬ事件が起きた。
彼女は私の顔を見て、「あーっ!」と声を出したのである。

先手を取られて、驚きで声が出なくなった。

いったい何事だろう。



紗友希はこう続けた。

「その帽子、わたしも色違い持ってるー!!」

私の被っていたベンデイビスのニットキャップは紗友希とお揃いだったようである。

「…そ、そうなんですか」



面食らってしまい、気の利いたリアクションもできずに、気付くとかなともの前にいた。

「あ、あ…」

かなともの顔が見えた。しかしあろうことか、紗友希に惑わされて予定が狂ったので頭は真っ白だ。
何も言えないまま、あっという間に佳林ちゃんの前に流された。
あろうことか佳林ちゃんも私の帽子を指してこう言った。

「ゴリラだー!!!」

それでもうさすがにわけがわからなくなって、最後の由加ちゃんにいたっては記憶がない。「応援しています、頑張って下さい」がほぼ発動することもないまま一週目は終わった。



Juice=Juiceは全体的に、とりあえず目に入ってきたものを話題に出す傾向にある。


それが楽しい人もいるだろうが、私の場合、向こうから話しかけられると自分は何もできなくなってしまうのである。
その対策を怠ってしまった。




結局、肝心のかなともに何も伝えられていないではないか。

CDは複数買っていたのでまだ並ぶこともできたが、もう体が悲鳴をあげていた。
私は、1日に1回以上握手ができないのだ。
自分に合った用法、容量は守らなければならない。

その後の握手は断念し、かなともに直接思いを伝えることはできなかった。








「いてもいなくてもみんなに迷惑をかけてしまう」というかなともの言葉が耳から離れない。


私が思い出すのは、自分のバンドがフジロックやライジング、朝霧JAMなど、大きなロックフェスに出まくっていた数年前のこと。
それはちょうど神聖かまってちゃんのスタッフとしても一番忙しい時期であり、どうしても仕事を優先しなければいけない立場であった私は、なかなかバンドのスケジュール調整できずにいた。


大きいライブの話が来ているのに、私のせいで断らなければならない。
そういうことも度々あった。
完全に自分が足を引っ張っているそんな状況に、いたたまれない気持ちだった。
いい人がいるなら、ベースは誰かに任せて辞めてしまった方がバンドのためかもしれない。
そう思ったこともある。

だが、リーダーの池永さんは「劔くんでないとあの音のニュアンスが出ないから」と、一緒にやってゆくことを選んでくれたし、メンバーもみんなそれぞれの生活もあるおっさんなので、焦らず長い目で見てくれたから続けることができた。

運良く自分はそれで助けられたが、誰かひとりのために足並みが揃わなくなり、ギクシャクするバンドは他にもたくさん見てきた。
病気、引越しによる遠距離活動、子供ができたことによる生活の変化…
理由はいろいろだ。




そういうこともあり、かなともの精神的辛さは身に沁みる。

メンバーやスタッフがいくら大丈夫だと言っても、自分が迷惑をかけてしまっているという不安は消えることはない。
だから、無理してでも「大丈夫です、やれます」と言ってしまうこともあるだろう。

それでも、本当に無理な時がある。

「ほらやっぱり無理じゃないか」

誰もそんなこと言わなくても、かなともはそう思われているように感じてしまうだろう。
よけい迷惑をかけてしまったと思うかもしれない。






ラジオでも言っていたが、かなともが今闘っているのは、病気自体の痛みというより、ほとんど薬の副作用からくる体調不良のようだ。


聞くところによると、なんともない状態でも、ひとたび出たステージの熱気で急激に気持ち悪くなったりすることもあるらしい。

極端に具合が悪い日があったかと思えば、翌日は元気だったりする。

無理せずとにかくしばらく休ませろという人もいるが、それは見当違いな部分もある。
無理させるのはもっての外だが、しばらく休めば何かがよくなるというものでもない。



スケジュールを決められる仕事はやりにくい病気であることは確かだが、ドタキャンを恐れてしまうと、スケジュールが決められないので何もできなくなってしまう。
それで益々気持ちが悪い方へ向かってしまう人もいるようで、子宮内膜症患者に「好きな仕事や趣味をなるべく続ける」ことを勧める医師もいるようだ。




しかし、問題の多くが薬の副作用によるものであるならば、それは救いでもあるんじゃないかと思う。

どうやら、自分に合った薬が見つかったり、体が薬に慣れてきさえすれば、ある程度楽にすごせるようになるらしいのである。もちろん、それがいつになるかは人それぞれであるし、確実ではないのだが。



でもなんとなくだが私は、かなともはきっとそのうち、薬が馴染んで、活動のペースをある程度は戻せるようになるじゃないかという気がしている。

220公演とかそんな無理はできないかもしれないが、たまには休むこともあると思うが、普通に
5人でやっているJuice=Juiceになるんじゃないか。

だから、それまで、しんどいだろうけど、ファンもみんなでかなともを支えて、乗り越えてゆきましょうよと言いたい。

きっと、あの時期は辛かったねと、みんなでそれこそ武道館で笑えるような気がしている。


私は、そう信じて、なるべく今を楽しみたい。

経験を経て深みの増してゆくかなともの歌を聴きたい。

強くなるグループの絆を見守りたい。



今は、そんなことを考えながら、気負わず応援してゆくつもりである。

それが自分のできることかなと思っている。





最後に、金澤朋子さんとJuice=Juiceの皆さんに。



まだみんな長い夢の途中です。

5人で続いていくストーリーを選んでくれて、本当にありがとうございます。




九段下の蕎麦屋。




この1、2年で一番行っているライブハウスはどこだろうと思うと、それは日本武道館のような気がするのである。
武道館はライブハウスとは言えないか。いや、「ライブハウス武道館へようこそ」という氷室京介さんの言葉もある。

とにかく、私は何年も何年もライブハウス界隈を中心に仕事や活動をしてきたが、そういう仕事が比較的減り、同時にハロプロに通いだしたことで、一番足を運んでいるライブ会場はたぶん武道館になってしまったのである。




2013年に℃-uteがデビュー10年を経て武道館に辿り着き、モーニング娘。が久々に普通のツアーで武道館公演を成功させ、スマイレージ、Berryz工房がそれに続く形で、ハロー!プロジェクトの多くのグループにとって武道館は当たり前の場所になった。一時は武道館が遠かったハロプロだが、完全に帰ってきたのだ。


それにつれて、ハロプロへの熱が上昇し続ける私も本当によく武道館に足を運んだ。

九段下の坂を登る人の波。道すがら声をかけてくるダフ屋。イリーガルな写真を売る屋台。終演後には、ヲタ仲間と九段下の交差点にあるロイヤルホストで食事をする楽しみ。毎回それが一緒についてくる。武道館に来る時はいつもワクワクする。





そんな武道館に初めて来た日を思い出す。

それは、2005年5月7日のモーニング娘。だった。
石川梨華さんの卒業公演だ。
私は大阪在住でモーニング娘。の応援をしていて、名古屋や近畿圏なら遠征したことはあったが、東京に遠征したのは初めてであった。

同行者は西野さん、ロビ前田さん、コツリン。
「たった一度の人生ならば 石川梨華とともに死す」と、並の神経では恥ずかしくて到底乗り込めないようなデコレーションの施された西野さんの車で深夜に出発して、朝方東京に到着した。
夜中じゅう起きていたのに、興奮で目が冴えていた。
武道館の駐車場に車を停め、周辺を散策する。
靖国神社の周りは栗の花の匂いのきつい時期だった。



どこかで昼ご飯を食べたいと、坂の上から九段下を見下ろした風景が今でも目に焼き付いている。
適当に入ったのは、ちょっと雰囲気のある蕎麦屋だった。せっかく東京に来たのだし、それなりのものを食べても良かったのだろうが、寝ていないので、みんなさっぱりしたものしか食べられなかったのである。

ずっとモーニング娘。について話しながら、もりそばを啜った。
ずっと運転してくれて一番疲れていたであろう西野さんだけは、元気に天ぷらそばを食べていた。
午前中のせいかあまり日が差し込まず、薄暗い席だった。




その夜の、モーニング娘。のライブのクライマックス。
名曲『ザ☆ピ~ス』の間奏部分、石川梨華ちゃんのセリフがある。

「あ~あ、愛しいあの人、お昼ご飯何食べたんだろう」

ロビ前田先輩は叫んだ。

「盛りそばー!!!」

ひたすら石川梨華ちゃん推し続けてきた前田さんは、コンサートではいつもこの部分でお昼ご飯に食べたものを報告していたのだった。

そんな石川梨華ちゃんの卒業。
前田さんにとってこれが最後の報告だった。




時は流れ2013年。
梨華ちゃんのセリフは、道重さゆみさんに受け継がれた。
音楽性も進化して楽曲も山ほど増えたモーニング娘。にとって、当時のように『ザ☆ピ~ス』が常にセットリストに含まれているとは限らない。
だが、そのツアー『CHANCE!』では歌われていたのだ。
久々にモーニング娘。のライブを武道館で見た私は、自分もあの報告をやらなければならないのではないかという責任感に駆られていた。

が、結論から言うとできなかった。
当時の私は道重さんの姿を見るだけで涙が溢れてくる謎の奇病に冒されており、コンサート中はイチイチ泣きっぱなし、さらに一緒に見ていたユースケ・サンタマリアさんに、「劔くん、ずっと泣いてるじゃないか!」と既にそのことを指摘されていたため、さすがに自制心が働いたのである。

「油淋鶏定食…」

道重さんへのお昼ご飯の報告は、そっと心の中でつぶやくに留めた。





話は蕎麦屋に戻る。

先日、用があって九段下に訪れた時、時間があった私は、あの時の蕎麦屋を探し歩いた。
ちょうど昼時だ。
あの蕎麦屋を探して、同じ席でもりそばを食べたい。



だが、もう10年以上も経っている。
今これだけ武道館に通っているにも関わらず、あの蕎麦屋がどこだったのか、はっきり思い出すことはできない。
すっかり見慣れてしまった九段下を見下ろす風景は、10年前の記憶とはなんとなく違っているような気もする。
潰れてしまっている可能性も大いにあるのだ。
わずかな記憶を辿り、なんとなくここじゃないか、という店はあったが、残念なことにその日は営業していなかった。

私は仕方なく近くのチェーン店に入り、かつ丼とそばのセットを食べた。

そして、この空の下のどこかにいる道重さゆみさんに、心の中でお昼ご飯を報告したのだった。




<男の家事場> その14 「飯、作るもの、食べるもの。」





僕は一度にひとつのことしか出来ないんで、おかず何品かを同時に作ることができないんですよ。
引っ越してコンロが3つになったけど、全然使いこなせませんわ。











<男の家事場> その13 「こんな奴でも、俺の相棒。」





ドラムの中を掃除しても取れないこの匂いとずっと付き合ってゆくことも覚悟しましたが、一週間くらいで元に戻りました。










悲しい時は、僕の好きな。





先週、長野の祖母が亡くなった。

93歳だった。
ここ10年近くは認知症になってしまっていたため近所のグループホームで生活していて、介護のために娘である母がたびたび新潟から訪れていた。



子供の頃、初孫だった私はとりわけかわいがってもらった。
友達も多く、よくしゃべりユーモアのある祖母だったが、認知症になってからは、会って話しかけても言葉は帰ってこなかった。




祖母が認知症になる前、85歳になる祖父が倒れた。
もうダメかと思われたが、奇跡的に復活した祖父は倒れる前より一層元気になった。
元々習字や俳句など趣味の多い夫婦だったが、祖父はそこからさらに陶芸というカロリーの高い趣味を追加する。庭に釜まで作る徹底ぶりで、作品を作り始めた。


人生に迷いがちだった20代の私は、新しいことには何歳からでも挑戦できるということを祖父の生き様によって教えられた。

祖父の晩年の作品に、「夢」と書かれた書があった。
筆文字で「夢」なんて、遊助とかそういう人がビジュアルに使ってそうな青臭い表現だが、90近くの老人のメッセージと思えばだいぶ印象が違う。
いくつになっても夢は追いかけていいのだ。今も私はそう思っている。



同じ頃、祖母の認知症がはじまる。
祖父はそんな祖母の面倒を見ながら、好きなことに打ち込んで日々を謳歌していたが、2007年に近所の公民館で民謡踊りをやっている最中に突然心臓が止まり、そのまま亡くなった。

大河ドラマか何かで信長が本能寺の炎の中で踊りながら死んでゆく表現があったが、あれは絶対創作なので、踊りながら亡くなるなんてことが本当にあることに驚いた。

突然のことだったが、なんて幸せな死に方だろうとも思った。




働き者だった祖母にとっては、認知症のせいで一度は死にかけた祖父の面倒を見られなくなったことは無念だったであろうが、結局、そんな祖父が亡くなったこともわかっていたのだろうか。
近所の友人たちもみんな先に逝ってしまったことも知らないままだったろう。
それはそれで、よかったのかなという気もする。

でも、もしもできるならもう一度、元の祖母と話がしたかったとも思う。
結婚した姿を見せてあげたかったと思う。




新潟の私の実家では、16歳になる柴犬を飼っていた。

高齢のため2014年の冬くらいから歩けなくなり、その冬を超えるのも難しいかと思われたが、母と父の介護により、春になり、夏を越え、1年くらい寝たきりのまま暮らしていた。


先日、私が正月に帰った時にはいよいよじっとしているだけになってしまっていたが、まだ食事はできていた。

祖母の容態が悪くなり、父と母はしばらく長野の家にいなければならなかったため、犬と猫も連れて長野へ行っていたのだが、祖母が亡くなった夜、母が家に戻ると、うちの犬は久しぶりに声を出して鳴いたという。
そして、そのまま何も食べなくなり、数日後、祖母のあとを追うように亡くなった。

動物はたびたびそういう不思議なことがある。
実際は新潟にいた犬なので、長野の祖母とはあんまり関わりはないのであるが。



父だけ先に新潟へ帰り、後始末で長野に一人残った母に電話をした。

犬はペットの葬儀場で骨にしてもらったので、新潟に連れて帰るという。

「体は元気だから心配しなくて大丈夫だから。ただ悲しいだけで」
母はそう言った。



子供の頃、夏休みや正月によく遊びに行った長野の家は、いよいよ誰も住まなくなる。
親戚のおじさんやおばさんたちも、知らないうちに随分歳を取ってしまっていた。

自分も、両親も、友人も、同じだけ歳を取っている。



10年前、兄貴が40歳だという西野さんの話にみんなで大笑いした。
いつまでも中高生のような精神でいた男たちにとって、「兄貴が40歳」には大きな衝撃があったのである。

しかし、笑われた西野さんも40歳を迎え、笑ったみんなも続々40を迎えている。西野さんの兄さんにいたっては50歳なのである。


当時ハロヲタをやっていた西野さんは、「俺が死んだ時は、出棺の時はモーニング娘。の『Go Girl ~恋のヴィクトリー~』をかけてくれ」と言っていた。

もう西野さんはハロプロから興味を失ってしまったが、あの時の言葉を私たちは忘れていない。
何十年かして西野さんが死んでも、あの時の気持ちのまま、「西野さんが自分でそう望んだんだ!」とこの曲を流してもらうつもりでいる。


私も、出棺の時の音楽はハロー!プロジェクトがいい。
みんな、元気になるからだ。

でもその時まで、まだまだいくらでも新しいことに挑戦しようと思っている。



<男の家事場> その12 「時は待ってくれない。」





家に鼻炎がいると、とにかくティッシュを使うのでゴミ捨ての回転率が早いです。










私の部屋にも地震はやってくる。

「SMAP解散」というとてつもなく大きなトピックが出て、近頃の芸能ニュースはどんな媒体もそれ一色になった。


ネットでは色んなデマやあらぬ風評も出回っている。最近はSNSがあるため、影響力あるタレントさんの話題は往々にしてそうなりがちである。




かくいうこんないいかげんな会社員風情の私ごときにも、ネット上には「犬山紙子と結婚する前に相沢まきと付き合っていた」という謎のデマが存在している。


そもそもうちの妻は相沢まきさんと顔が似ているとよく言われていたようなのだが、そんな2人がテレビ番組で共演した時、妻の方が相沢さんを嫉妬深い目で睨みつけていた、という当てつけも甚だしい飛ばし情報を書いたネット媒体があり、それを他のインチキニュースサイトもイチイチ引用するため、何も知らない人にとっては「これだけどこにも同じこと書いてあるんだから…」と思えるくらいの信憑性になっているのである。

実際には、私は相沢まきさんとお会いしたこともない。



くだらなさすぎてここで話題にするのも時間の無駄に思っているのだが、残念なことにたま~~~に信じている方が存在する。


確かに20年前、教室の後ろの席から童貞と非童貞をカウントすることが日課だった新潟の高校生だった男が、たまたまテレビに出ている人と結婚できたことは事実ではあるが、この顔で芸能人をとっかえひっかえできていると信じる人がいることは正直理解できない。

そんな人生なら、きっとこんなしみったれたブログを書いてはいなかったであろう。



というわけで、この話をここで初めて知った人も、面白がって「相沢まき 劔樹人」で検索するのは絶対やめましょう。
なぜならばそういうサイトはアクセスするごとに広告によりお金が入るようになっているもので、そんなインチキ詐欺サイトに0.05円/1pvすらも与えるわけにはいかないのである。

必死で火消しをしているのではない。私はマジだ。できることならみんなにこの真剣な目を見てもらいたい。
もし私が小田さくらだったら、真剣な自撮りをアップするのに。





話は戻るが、SMAP解散報道でとりわけ話題になったのが、年末に今年の色々を予言していたというこちらの書き込み。

↓↓↓↓↓↓↓

名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2015/12/25(金) 12:01:32.61 ID:boe58aea
来年早々に芸能界でスキャンダルが起こります。
人気女性タレントの不倫騒動です。
この事件から6日後に関西方面で大地震が起こります。
その被災地のボランティアにその女性タレントが訪れます。



ネットの解析部隊が調査した結果どうやらデマらしいのだが、ちょっと心配だったので関西のハロヲタ友達に連絡すると、

「それはヤバイ! 家が崩壊したら近所の人に簡単にヲタバレしてまうんで、部屋を整理します!!」という返事をくれた。

心配するポイントはそんなとこなのか。




この一件で思い出したのは、大学の先輩であったTさんの話である。

Tさんは私が大学の頃からやっていたバンドで何年か一緒に活動することになるのだが、私が大学に入学した時は大先輩の5年生で、さらに浪人もしていた。
大学生の感覚では、その6歳差が果てしなく感じられたものだ。



阪神大震災が起こった1995年、私は高校受験を目前に控えた中学3年の子供であったが、Tさんはすでに大学生で、高槻で実家暮らしをしていた。


Tさんはとにかくエロに余念のない人で、大学時代もずっと大学の近くのエロビデオ屋で働いていた。
その店の名は「はかいや書店」。看板には「東洋一のエロショップ」と謳われていた。
実際に破壊的にエロかったので、当時の私たちはその謳い文句を疑いもしなかった。
のちに「信長書店」を訪れてその迷宮のようなエロの貯蔵量に衝撃を受け、いかに自分たちが井の中の蛙だったか思い知らされることとなるのだが、それはまた別のどうでもいい話。




Tさんはいつもバイト中はお気に入りのエロビデオをダビングし、編集して過ごしていた。
日頃から常にエロに接していると感覚が麻痺してきそうなものだが、Tさんにそんな雰囲気は全くなかった。



当時実家暮らしだったTさんの自室の本棚は、家族から見つからないように精巧にエロを隠した状態にあったという。
側から見たら普通の本棚だが、棚部分をちょっとスライドさせると、奥にはとんでもない量のエロが隠されていた。しかも、目当てのものを探しやすくすると同時に、盛り上がった時に次々に欲望に沿ったエロが出てくるよう、内部は絶妙に機能的な配置で整理されていたらしい。
Tさんはその自慢の本棚を「エロシステム」と名付けていた。



当然、私は実際にエロシステムを見たことはないわけであるが、当時のTさんを見ていれば普通に納得できる話であった。



後に私とTさんは同じ古いぼろアパートに住むのだが、私の205号室がいかにもサブカルクソフリーター然とした物だらけの汚部屋になっていたのに対し、Tさんの201号室はオリエンタルな内装と家具でとても整然としていた。


一番印象的だったのは、猫の額ほどのTさんの玄関には、ちょっと小洒落た和風料亭のように砂利が敷き詰めてあったことだ。
私が部屋にいると、Tさんの玄関からこぼれ出した石を別の部屋の誰かが蹴飛ばしてしまい、カツーンと響く音が廊下から聞こえてくることがあった。
当時部屋でひとりじっとしがちだった私には、その音にちょっと一句詠みたくなるような風情すら感じていた。


また、お互い大量のCDを持っていたが、私が部屋の一角に幾重にも縦積みし、中身とケースもバラバラだったのに対し、TさんのCD棚は50音順に整理して並べられていた。
それくらい几帳面な男だったので、Tさんがエロシステムのような設備を構築していることはごく自然なことであった。むしろ、想像以上に機能的でボリュームあるシステムだったと思う。




そんなTさんの部屋にも、震災は容赦なく襲ってきたのである。

午前5時46分。
激しい揺れにエロシステムは崩壊した。
大量のエロが本棚の奥から飛び出し、Tさんの寝ているベッドの上に降りかかってきた。

揺れが収まると、階下から息子の安否を心配した母親が駆け上がってきて、大慌てでTさんの部屋のドアを開いた。
その瞬間、母親の眼に飛び込んできたのは、見たことのない量のエロ本やエロビデオに埋もれて呆然とする息子の姿であった。

Tさんと母親の目が合う。

おそらく、「真吾、大丈夫!?」とでもいうつもりでドアを開けた母親は、その光景に動転してしまったのか、息子に変な気を使ってしまったのか、こう叫んだという。


「真吾、朝ごはん何にする!?」




6500人もの人たちが亡くなった、恐ろしい震災だった。
母親に崩壊したエロシステムを見られたTさんは死にたくなったかもしれないが、命があったことは幸福なことだったと思う。


ヲタがばれてもいい。
エロがばれてもいい。

災害はいつ起こるかわからないが、何よりも生きていれば笑い話もできるのだ。




メガネっ子純情。

新年が明けて2週間近くも過ぎました。




私は昔からみんなが一斉に参加するような祭り事が苦手で、とりわけ誰しもが「良いお年を」「あけましておめでとう」を言い合う事を強要される年末年始が近づくと、どこか憂鬱な気分になっていた。


そもそも、人が集まっているところで離脱を告げることすら苦痛だったりする。
だからいつも、大勢の人がいる場所からは、何も言わずいつの間にか帰るようにしてきた。
大学の頃は飲み会とかあると、なるべく周囲が盛り上がっているときに、そっといつの間にかいなくなることを心がけていた。

今日はとても美しい去り際だったな。
そんな感覚に酔いながら、どこか後ろ髪引かれる思いも抱きつつ、ひとり夜風に吹かれる気持ちよさ。
あれはなかなか良いものだった。


しかし社会人にもなると、こういうのは時と場合によっては大変失礼なこともあるので注意が必要だし、下手したら信用を失ってしまうこともあるだろう。しかしそのリスクを背負ってもまだこっそりいなくなりたい気持ちが上回るのだから仕方ない。


とはいえ、私のようなものはだいたい、どんな場所に行っても影の薄い存在であるため、いつの間にかいなくなったとしても誰も気に留めていないのが現実だったりする。
華がない人間とはそういうときに便利なものだ。
何事にも、良い面もあれば悪い面もあるということである。





話は年末年始に戻るが、私は出来るなら12月~1月の間は姿をくらませて、「あけまして~」の正月気分が去った頃に何事もなかったかのように出て来れる身分になれればとさえ思っている。

しかし毎年正月はハロー!プロジェクトのコンサートが2日から行われるので、そこはどうしても外すわけにはいかない。
ステージからハロメンたちが「あけましておめでとうございま~す」と言ってくれる。
こちらは満面の笑顔で手を振る。
なんという幸せだろうか。
年が明けるっておめでたい。ハロコンは素直にそう思うことができるのである。





年が明けて楽しみなことと言えば、2月からフジテレビで放送されるJUICE=JUICE主演のドラマ『武道館』である。
原作は友人でもある朝井リョウさんだ。



12月の初旬、ヲタをいっぱい招集する撮影があるということで、ハロー!プロジェクトのファンクラブではエキストラ募集が行われた。

ついにJUICE=JUICEが世間的に日の目を見る機会を得たドラマだ。
ハロヲタとしてここは最大限に盛り上げなければならない。

ただ、JUICE=JUICEは、ハロプロの中では比較的高齢男性ファンが多いグループと言われている。

私はハロ!ステなどでたまに見かける、客席後方からの定点映像で、寂しい頭髪ばかりが写ってしまっている時の物哀しさを思い浮かべていた。
普通に女性や若者も多いコンサートと違い、ファンの中でも精鋭が集まりがちなイベントで見かける光景である。
それがさも当たり前かのようにお茶の間に放送されるのは、若干プロモーションとしてはまずいのではないだろうか。

自分も36なので大概おっさんだ。顔も悪いほうだろう。
が、幸いまだ髪の毛はある。いずれはそちらに行くだろう。しかし、今はある。
それだけでも、どうにかして参加しなければならないという謎の義務感を感じた。


もし落選したら今回ばかりは、朝井さんに頼み込んででも…と闇に手を染めることすら念頭に置くくらい絶対参加の決意を固めていたが、ちゃんと普通に当選することができた。




平日だったが、早朝からの撮影だったので自分の仕事には都合が良かった。

会場は川崎のクラブチッタである。
朝の6:50くらいに到着すると、すでに大勢のヲタの皆さんが列を作っていた。

ここで2011年に神聖かまってちゃんのフリーライブをやったことを思い出す。
リハーサルが終わり、近くのスターバックスにコーヒーを買いに行くと、たくさんのお客さんから声をかけられた上、スターバックスの店員さんからも「劔さんですよね?頑張ってください」と言われたのだった。
当時はマネージャーだった私もかなり顔を知られていたが、あそこまで多くの人に声をかけられたチッタは印象深い。

当時のかまってちゃんは私たちのようなスタッフに対してもそういう盛り上がりがあったものだ。
しかし正直、自分の力でそうなったわけでは一切ないと思っていたので、何の感情も生まれなかった。



あと、2013年に自分のバンドで出演したBAYCAMPのこと。
出番が深夜であったため、機材車では行かず、ひとりで機材を持って中目黒から東横線に乗ろうとしたときである。

上りエスカレーターでわずかに油断した瞬間、ベースのハードケースがエスカレーターの両側の手すりに引っかかったかたちになり、つっかえ棒のようになってしまったのだ。


エスカレーターの力の凄まじさをここまで実感したのは初めてだった。

ミシミシ音を立ててハードケースが反り返る。
ハードケースを取り残して、先に上って行く状態になってしまった私は、上りエスカレーターを下りながら必死で外そうと試みたが全くビクともしない。
下から上がってきた人たちは、前方が塞がれた形になり、パニックになりかけたが、下で誰かが停止ボタンを押してくれてなんとか助かった。

すぐさまケースを外そうとしてくれたおじさんは、ケースと手すりに上着が巻き込まれ、服がビリビリになってしまった。日常的に使っているものが、あんなにおっかないものだったとは。私には、エスカレーターがサンシャインの地獄のローラーに見えた。いつ事故が起こるかもわからないので、エスカレーターの停止ボタンには常に気を配っておくことをお勧めしたい。

私はバキバキに割れたケースを抱えてチッタに向かい、ライブをした。中のベース本体は無事だった。
朝方だったので、お客さんたちは疲れ切っていた。ロビーでは疲れて寝てる人がたくさんいたが、みんな僕らの後のDJダイノジの時には復活して踊っていた。





『武道館』の撮影も、待ち時間はたくさんのヲタがロビーのソファーで寝ており、深夜のスーパー銭湯の休憩所のような光景が広がっていた。


かくいう私も、たまたまソファーに座れた時についつい寝てしまったのだが、隣に座っていた大柄のおじさんとお互いに恋人のようにもたれかかっていたため、目が覚めた時は激しく狼狽した。しかし、そのおじさんも完全に熟睡していたようで、たぶん気付かれてはいなかった。

端から見たら、おっさん同士が寄り添う姿はさぞ微笑ましかったに違いない。面白がられてこっそり盗撮されたとしても仕方ないだろうが、ハロヲタは民度が高いのでTwitterで晒されたりはしていない。どこかのグループLINEでひとときの笑いものになっているくらいはあるかもしれないが。






その日は握手会のシーンの撮影だったのだが、エキストラの参加者はもれなくメンバーと握手が出来るとことが発表され、会場のみんなは湧いた。

もともと、一部の参加者だけ握手のシーンの撮影もあるというアナウンスだったが、メンバーの好意で全員が握手できることになったのだ。

受付の時に元・太陽とシスコムーンの稲葉さんがスタッフとしてカードを配ってくれていて、私はつるりん(役名)こと宮崎由加ちゃんと握手できることになっていた。



しかし、いつもハロメンと握手する時は逃げ出したいくらいの緊張に襲われるので、その場で急に握手できますと言われても心の準備が追いつかない。


これはまずいんじゃないかと思ったが、JUICE=JUICEならそこまで緊張せずにいけるんじゃないかという思いもあった。

なぜならば、JUICE=JUICEはJOL原宿でやっていた女性限定イベントにうちの妻がゲスト講師として出演させてもらったことがあり、それ以来武道館でハロー!の他のグループのコンサートがあった時などは、関係者席に現れたJUICE=JUICEメンバーが客席にうちの妻を見つけるとみんな笑顔で爆レスをくれたりしていたので、それを隣で見ていた自分としては、勝手に変な親近感を抱いていたからである。

そんなわけで調子に乗って余裕の態度で握手の列に並んでいたが、いざ宮崎由加ちゃんを前にすると、一瞬で緊張はメーターを振り切り、脳内は音楽的な意味で、視線は文字通りのシューゲイザー状態に突入した。

だが私には、ハロメンを前にして緊張した時でも自動再生される言葉がある。

「応援しています。がんばってください(小声で)」

これは長年の握手経験によりプログラムされた私の防衛機能である。
防衛機能の発動により、最低限のコミュニケーションは完了できる。


しかし、それを言い終わらないうちに、由加ちゃんは満面の笑みでこう言った。



「わあ~メガネ似合ってる~ ありがとう~」





私はこれまで36年生きていて、確かにメガネをかけている時はあるが、正直メガネキャラを推したこともなければ、人からメガネをかけている人間として印象を持たれることもなかった。

私の人生でメガネに注目してくれた初めての人が、宮崎由加ちゃんなのである。

「あざかわ(可愛さがあざとい)」と呼ばれ、握手対応力でハロメントップクラスと言われる彼女は、私を見た瞬間、とりあえず目に入ってきたメガネを褒めたのだ。
ていうか、着てる服も顔も冴えなさすぎてメガネしか触れるところがなかったのではないか。


妻が一緒に仕事をしたことでこっちは勝手に親近感を抱いていたが、まさかそんな一緒にブログの書き方を勉強した犬紙先生の夫がヲタとして握手に現れて、さらにメガネ以外に何の印象もないとは、さすがの由加ちゃんも夢にも思っていなかっただろう。







フジテレビのドラマ『武道館』の放送開始はもうすぐだ。
朝井さんの原作は間違いないし、キャストも豪華だし、JUICE=JUICEに興味のない方にもぜひ見ていただきたい。



しかし、エキストラに参加した私が、カメラに映ることはまずないということは先にお伝えしておきます。

なぜなら、その握手の後の私は、「入り口付近で会場内に流入してくるヲタ」という、カメラに見切れない位置での渋い芝居を延々と繰り返していたからである。





最後に、先日体調不良でハロコンを欠席した金澤朋子ちゃんがはやく元気になりますように。