「警備隊到着!周囲に数多くの怪物を確認!アン様の保護完了!レイラ様、いかがいたしましょう!」
ちょうどリロの昔話が終わった頃、十人ほどの警備隊とレイラがやってきました。タンタがハッとそちらを向くと、そこには既に警備隊に囲まれたアンの姿。レイラは凛とした表情で奥のノネムを見据えています。傍に立っているハルも、静かにレイラと同じ方を向いていました。
「やはり災いのピアノだったな」
「……えぇ」
「ハル。ノネムを捕らえろ」
「かしこまりました」
レイラに命じられたハルは道中の怪物達を拳銃や警棒でいなしながら、巨大な怪物に飲み込まれているノネムに歩み寄ります。そしてあと数歩、とまで来た時、ハルはノネムに拳銃の先を向けました。
「ハル!」
そう叫んで向かおうとしたタンタを、警備隊達が押さえつけます。ハルは聞こえたのか聞こえていないのか、微動だにしていませんでした。ただ目の前の、モヤに包まれながらピアノを弾くノネムを見つめて、ただ、拳銃を握る手に力を込めていました。
それからしばらくして、ハルはふと息を吐きました。そして少しばかり肩の力を抜くと、未だにピアノを弾くノネムに話しかけます。
「ノネム、貴方は本当に神なのでしょうか」
それは他の誰にも聞こえない、きっとノネムにすら届かない小さな声で。
「だとしたら、どうか、私の願い事を聞いてはくださいませんか。その優しき御心で、私の心を『救って』はくださいませんか」
気づけば自分のすぐそばまでモヤが来ている事にも、知らぬふりをして。
「どうか、どうか、どうか……!」
ひとつ、ゆっくり瞬きをしたら、そこはもう黒いモヤに包まれていました。その先にぼんやりと見えるノネムと、目があったような気がしました。
カタリ、と自分の手から落ちた拳銃の音が、遠い夢の中で聞こえたような感覚。気づけば、自分の聴覚がほとんど機能していないことをハルは理解します。熱くなる体。軋む心臓。自分が怪物になっていく様子は、本当に面白いくらい他人事。体はこんなにも悲鳴をあげているのに、理性だけがどうしても消えないのはどうしてなんだろう。
「くっ、う……」
今、自分が立てているのかもわからない。
自分は、どんな姿をしている?
自分は、どんな声をしている?
自分は、どんな指をしている?
この手はピアノを弾けるのか?
人間になれるのか?
自分の思考ではない何かが、どろりと混ざって溶けていく。いや、これは、自分の思考なのか?
人間になりたい。
神様になりたい。
誰かの手を取りたい。
そして音が欲しい、あの音が。
あのピアノの音が……。
「ダメだったか」
洞穴に響いたレイラの声で、タンタはハッと我に返りました。目の前でハルが黒いモヤに取り込まれていく所を、ただ見ている事しか出来なかった自分にひたすら絶望を感じていたのです。
怪物と成り果てたハルは、もうハルなのかさえわからなくなっています。
その時、大きな発砲音が、ひとつ、ふたつ、みっつと響きました。
ハルだった怪物はゆらりと揺れて崩れ落ちます。
「嘘だろ……?おい、嘘だって……」
タンタが震えながら気配を振り返ると、拳銃から空薬莢を取り出しているレイラが映りました。
そう、レイラが躊躇いなく怪物を撃ったのです。
「レイラ、様……!人の心はねぇのかよ……!おまえ、おまえっ……!」
「どうした。怪物を撃っただけだろう」
「怪物って!ハルは、……あんたの息子だろう!」
「さぁ、どうかな。私は怪物を撃った。それだけだ」
タンタが唇を噛み締めながら前を向くと、そこにはもう、ハルの姿も、小さな怪物の姿もどこにもありません。それが大層空虚なものに思えて、タンタは強く強く歯を食いしばりました。
しかし、次いでノネムにも拳銃の先を向けたレイラに、タンタのカラカラの喉が悲鳴をあげます。
「レイラ!お止めなさい!」
アンの悲痛な声と、銃声は、ほぼ同時でした。
ノネムに向かって放たれた弾丸は、黒いモヤを貫通しましたが、そのまま黒い虚空に溶けて消えたように見えました。レイラは不審に感じて二発目を撃ちますが、それも同じように溶けて消えていきます。
「どういうことだ……?」
もうやめてくれ、と耳も目も塞いでいたアンとタンタもゆっくりとノネムを確認しました。ノネムはというと、いつの間にかピアノを弾いていた手を止め、黒いモヤに包まれたままこちらを見ています。そして、椅子からゆっくりと降りて立つ様子を、ただ、誰もが真剣に見つめて。
そこにもう一度、とレイラが撃った弾丸は、確実にノネムの顔を狙っていて、だけどモヤに触れるとじんわりと消えていく。
ふと、くすりと笑ったノネムに、その場にいる全員が息を飲みました。
「ボクは人間にはなれなかった。アナタたちを見て、そう思った。人間の感情は難しい。とても優しくて、とても可哀想。『理解』した。それに、神様のようにアナタたちを助けることも出来ない。……ボクは人間にはなれなかった、とさっきは言ったけど、ボクはあくまで神で、それで、人間でもあったんだ」
ノネムはスボンのポケットに手を入れると、折り畳みナイフを取り出しました。ゆっくりと刃の部分を出して、カチリと音をたてます。
「曖昧な世界を、愛していたんだと思う」
次の瞬間、ノネムは勢いよくナイフを自分の胸に突き刺しました。黒いモヤごと貫かれたノネムは、グッと顔を顰めて、そして。
そして、辺りは眩い光に包まれたのです。