ピアノを弾いて、と。ただそれだけが頭の中で響いています。ノネムは、その声が目の前の怪物から聞こえているのだと、どうしてだか理解が出来ました。
 わかった、と頷いてみせると、怪物はのそりと横に動きます。その先には古びたアップライトピアノがポツンと置いてありました。吸い寄せられるようにノネムはピアノの前に座ると、既に蓋の開いてある鍵盤に触れます。ザラザラとしたその感触は、新鮮でした。
 目を瞑り、息を吸うと、聞こえていた音達がふと身を潜め、頭の中がクリアになっていくのを感じます。そしてゆっくりと目を開け息を吐き、演奏を始めました。
 
 その音は、洞穴を震わす……事はありませんでしたが、そこにいる命達の心を確かに震わせます。怪物とノネムをどうにかしようと慌てふためいていたタンタとアンも、思わずピタリと足を止めました。それは調律などされていないズレた音なのに、どうしようもなく胸を締め付けたのです。
 そして、ピアノを弾いているノネムに、ゆっくりと怪物が近づいているのに、ただ、見ている事しか出来ません。
 怪物はじんわりとノネムの背中に寄り添うと、やがてモヤで包み出します。そこでようやくタンタが「あっ……!」と声を出しましたが、周りに小さな怪物達が蠢いていた為、動き出すことは叶いませんでした。
 それはまるで、真っ白なキャンバスに絵の具が染みていくように、綺麗な青空が薄雲で覆われていくように、ノネムはのまれていきます。しかしノネムは苦しむ様子はなく、演奏を続けています。アンは、目の前の様子をにわかには信じがたいものだと思いました。
 ありえない。どうして。なぜ。
 震える口はハクハクと開閉し、じんわりと瞳に溜まっていく涙は熱を持って頬をつたい、乱れる呼吸のせいで上下する肩。
 立つ事すらやっとだったアンは、自分がなぜ泣いているのか理解をする事も出来ません。
 タンタも足の力が抜け、ぺたりと座り込んでいました。どんな勇気も決意も力も、得体の知れない感情と景色の前では無意味でした。

 混沌とした空間の中、ピアノだけが凛と響きます。

 どれくらいか経ったタイミングで、リロが口を開きました。

「昔話、なんだけどね」

 それは、アンとタンタの意識を掬い上げるにはピッタリの話でした。

 むかしむかし、年数すらわからないほど昔。
 退屈していた神様は人間世界の観察をしていたんだ。
 それでもちっとも退屈は収まらない。
 だって人間なんて、しょせん短い命をそれなりに生きているだけなのだから。
 そんな事を思ってた。
 だけどとある日、どこからか小鳥のさえずりのような、心をくすぐる音が聞こえた。
 神様は音の出処を探すと、そこには一人の人間が村でピアノを弾いていた。
 その音はなんと清らかで美しいのか。
 感動した神様はピアノを弾く人間の前にふらりと降り立ち、こう言った。
「お前は何を思い、ピアノを弾く」
 人間は答えました。
「ピアノが好きという、その気持ちだけです」
 神様は大層驚きました。醜く愚かな人間の中に、ただ純粋な気持ちだけで動く人間もいるのかと。そして他にもたくさんの、ただ好きなものの為だけに生きる人間がいることに気づきました。
 それからというものの、ピアノの音色を聴きながら、たくさんの人間を観察することが神様の楽しみになっていました。
 しかし、人間の時間は有限です。いつの日かピアノ弾きの人間はいなくなり、神様は悲しみに暮れました。
 あのピアノの音色をもう一度聴きたい。人間が奏でるあの音楽をもう一度。もう一度。もう一度。
 そこで神様は、自ら人間を創り出す事にしました。けれどそこで大切な事に気づきます。神様はその人間の名前も顔も、何から何まで知らなかったのです。
 それでもあのピアノの音が聴きたくて、神様は見よう見まねで模索しました。
 創り出した人間は何度も失敗を重ね、ようやく一人、成功します。
 その人間の名は『ノネム』。
 ノネムは神様が創った、紛い物の人間。神様にもなれない、憐れな人形。そんな中途半端なノネムには、神になれる素質があるのにも関わらず、人間としての機能を与えられた為、感情というものが芽生えていました。
 神様の元を離れたノネムは、一人ピアノを弾き続けます。
 人間になり損ねた怪物達が、人間の体を、ノネムを、求めていることにも気づかず。