「そして私は森に行き、ノネムと出会ったのです」
アンはそこまで語ると、頬を伝う涙を強く拭いました。それでも涙は拭いきれず、握っているタンタの手の上にポタポタと落ちていきます。タンタはというと、衝撃の事実の連続に口をあんぐりと開けていました。
ずっと自分の神様だと思っていた人が、ただの人だったという事実。それ以上に衝撃なのは、
「アン様、最初から生贄になるつもりでここまで来たのか……?」
その質問に、アンは俯いたまま小さく頷きます。ガツン、と頭を殴られたような気持ちにタンタは襲われました。
一方でノネムも形容しがたい何かが胸の中でざわりと蠢くのを感じました。そして気づけば
「それはダメだよ」
そう、言葉を零していました。
「だって、そうでもしなければ、わた、……私は、釣り合わない……!」
カタカタと震えるアンの頭にそっとノネムは触れると、柔らかな黒髪を優しく撫でます。アンはその感触に思わずノネムを見上げました。そして気づきました。
もう初めて会った時のような、表情の読みにくい、善悪どちらを灯しているのかわからない瞳も、理解出来ないと困る眉も、自分は神様なのかと問う口も、どれも存在しないことに。優しく微笑む彼は別人のようで。けれど、優しい声はアンの曇った心をゆっくりと掬っていきました。
「アン。神の声が聞こえても聞こえなくてもアナタはアナタでしょう。誰かの希望になれているだけで、それだけですごい事だとボクは思うよ。何もわからないボクより充分でしょう。アナタは人間だけど、たくさんの人にとっての神様そのものになれてるよ」
ふんわりと、掬われた心が暖まる感覚にアンはまた涙を零します。その涙をノネムは右手の人差し指で優しく優しく拭うと、その温かさに少しだけ驚きました。
人は冷たくて、温かい。賢いようで、愚かで、愛おしい。
ピアノを弾いていただけの時とは何億倍も違う思考がどこがくすぐったいのはどうして。
「まぁ、生贄なんていらないんだけどね」
カラリといつものリロの声が響きます。その声に全員が顔を上げてリロの方を見ました。視線を一度に受けたリロはいつの間にかアン達から二、三歩離れた所にいて、ふらふらと足を動かして遊んでいました。
おや?と全員からの視線に気づいたリロはパタッと動きを止めると、恥ずかしそうに笑います。
「えへへ、そんな見ないでよう」
「いらないって、どういうことですか」
アンの声は酷く小さいものでしたが、洞穴ではやけに響き渡りました。問われたリロはアンをじぃっと見ると、何かを堪えるように少し口角を上げて笑ってみせます。
ふと、洞穴全体が揺れたような感覚がありました。タンタはふらつきながら立ち上がり、アンはそんなタンタの腕を掴み、支えます。リロはそんな二人を慈愛に満ちた目で見ると、それからノネムの方を向いて朗らかに笑いました。
「お迎え、来ちゃった」
そしてリロが指をさした先には、今までとは比べ物にならないくらい大きな怪物がいたのです。ヒュッと誰かが息を吸う音がしました。
怪物は一段と大きいものの洞穴の奥から迫ってくる訳ではなく、その場で蠢いているだけだったので、タンタは何とか足を前に進めようとします。しかしそれをリロが手を伸ばして制止しました。なんで、とタンタが聞く前に、また洞穴全体が揺れ、全員ふらつかないように体勢を低くする他ありません。
しばらくして、やっと揺れが収まってきたとほんの少し安心したタイミングで、ノネムは頭にぼんやりとモヤがかるのを感じました。
「ピアノを弾いて」
するとどうでしょう。どこからか唸るような声がしたのです。ノネムは慌てて周りを見渡しましたが、アンとタンタは相変わらず奥の怪物を睨みつけていて、リロはニコニコとこちらを見ているだけ。
「ピアノを弾いて」
もう一度聞こえた声は、口を閉じたままのリロからではない事は明らかでした。
だとすれば、どこから?
ノネムはゆっくりと怪物の方を見ます。怪物はどこが顔かもわからないほどモヤがかっているのに、目が合ったような気がして。そしたら体が勝手に引き寄せられている気がして。トタ、トタ
、と歩く足は自分のものではないような気がして。
「おいノネム!」
「ノネム!」
誰かが自分を呼び止める声が聞こえた、ような気がして。
気づけばノネムは怪物の目の前で立ち止まっていました。