「タンタ、ノネムのピアノはきっと災いのピアノではありません」
 ノネムが去ってから少しした後、アンが小さく話しかけます。
「……でも、あいつがピアノを弾いたら怪物が出たんだぞ」
「しかし私は怪物に触れられても黒いモヤに取り込まれることはありませんでした。それはどうしてなのでしょうか」
「……それは、アン様が神の使いだから」
「……、そうかもしれません。それか、運が良かったのかもしれません。そうじゃないのなら、きっとノネムのピアノのおかげ」
「俺は……、そうとは思えないよ」 
「タンタ。タンタはノネムが湖に行って、ハンカチを濡らして、ちゃんと帰ってくると思いますか?」
「え?」
「もし本当に悪い人なら、もうここには帰ってこないかもしれません。私は少しだけ賭けてみたのです。ノネムがちゃんと帰ってきたら、そしたら、ちゃんと信じようって」
 アンは座り直すと、ノネムが去っていった方を眺めました。
「私も本当は不安なのです。自分が何を信じるべきかわからなくなってきています。けれど、だからこそ自分から強く何かを信じなくちゃ進めない気がするのです。ノネムのピアノには何か力が秘められているのかもしれない。ノネムには何か秘密があるのかもしれない。ノネムを私達は何一つ理解できていない。……それでも、私はノネムの言葉だけは信じたい」
 タンタは同じようにノネムが去っていった方を見ました。それから、痛む胸をそっと手の平で押さえました。昔から強く感情が動くと胸がいっぱいになって息がしづらくなるのは、タンタの癖でした。
 これだから俺はアン様のようになれなかったんだ。心の狭い俺じゃあ、守るものも守れない。
 胸に添えた手をぐっと握り締めると、タンタはそっと目を伏せたのでした。

 一方のノネムは必死に森の中を走っていました。走って走って、やがて小さな湖のほとりに辿り着くと、なだれ込むように地面に手をついて座り込みました。ゆっくりと息を吸い込んで、吐いて、気持ちばかり息を整えて、それからハッと手に持っていたハンカチを見ると少し土がついてしまっていて、慌ててハンカチを広げてパタパタと土をはらいます。
「……」
 ノネムはそのハンカチをギュッと握ると、意を決して湖の中に突っ込み、数回揺らして水をしっかり染み込ませてから引き上げました。ダラダラとハンカチから落ちていく水は想像以上に重く、ノネムはぼんやりとその様子を眺めます。
 すると、不意にノネムの手からハンカチがするりと落ちました。水を吸ったハンカチはバシャリと音をたてて湖の中に沈んでいきます。慌ててノネムは腕を突っ込んでハンカチを手に取ると、今度は離さないように強く握りしめて水から引き上げました。腕までびっしょりと濡れた事など気にもなりませんでした。
 それから両手でハンカチを絞ると、一度ハンカチを広げて丁寧に畳みます。そして立ち上がろうとした時、ガサリと近くの草から音がしました。思わずノネムは立ち上がるのをやめて、音の出処を伺います。やがて現れたのはレイラとハルの姿でした。
「おや、これはこれは」
 ノネムはレイラの後ろにいるハルを見ましたが、視線が合うことはありません。先程教会で話した朗らかなハルの姿はそこにはなく、ストンと表情を落とした無の顔だったのです。口も固く結ばれており、まるで別人のようでした。
「ノネム、という名前だったかな」
「……」
「まぁそんな警戒しなくとも、私は君を取って食ったりしないから安心してほしい」
 レイラはノネムから距離をとったまま、話を続けます。
「ところでアン様はどちらに?一緒にマニ洞窟へ行ったものだと思っていたんだが」
「……」
「ふむ、黙秘か。喋れる術はあるのだろうに。愚策か賢明な判断か、どちらだろうね」
 どちらでも構わないが。
 レイラは何が楽しいのかクスリと笑うと、ノネムに一歩近づき同じようにしゃがんで視線の高さを合わせました。
「どうだい、私とマニ洞窟に行かないかい?」
「え……?」
 突然の問いに、思わずノネムの口から掠れた声が出ました。その反応にレイラは大層楽しそうに笑みを深めます。
「君がこちら側の味方かどうかはわからないがそれはこの際どうだっていいんだ。今現在未知なる可能性を秘めている君の希少価値は高い。情報は多い方がいいからね。それに君の身も必ず守ると保証しよう。どうだい?」
 何を言われたのか全部理解出来ず、ノネムはポカンと口を開きました。しかし、目の前に差し出された手を取ろうとは微塵も思えませんでした。だから緩く首を横に振ると、それでも満足気にレイラは笑いました。
「まぁ、来るとは思ってはいなかったからいいさ。ちょっとした戯れってやつだ」
 そのまま立ち上がり、一言。

「アン様に伝えておいてくれ。『未だ神の声は聞こえるか?』と」

 それを最後に、レイラは踵を返しました。レイラが通り過ぎてから、ハルも倣い後ろを向きます。
「ハル」
 ノネムの声に一度だけ足を止めて、でも、振り向かずにハルは行ってしまいました。ノネムは二人の後ろ姿が見えなくなってもしばらく見続けていましたが、やがて手元のハンカチから水気が減っていることに気づき、もう一度湖の中に入れて絞るのでした。