それからもうしばらく歩いてから、タンタはそういえば、と話し出しました。
「ノネム、マシュマロ好きなのか?」
「え?」
「ハルさんが言ってなかったっけ?ポーチにノネムの好きなマシュマロ入ってるって」
 ゴソゴソとポーチを探れば確かにマシュマロが入っていて、袋ごとそれを取り出しては眺めました。少し間が空いて、ポツリと言葉が森に響きます。
「好き……、なのかはわからないけど、ふわふわしてた」
 その言葉に、アンとタンタは思わず顔を見合せます。気持ちばかり頬を緩めたノネムは今までに見たことのない、年相応の表情をしていたのです。タンタは袋をカサカサと揺らすとノネムに尋ねました。
「まだ食べる?」
「ううん……。さっき、たくさん食べたから」
「そっか……。また食べたくなったら言ってくれよな。ていうかせっかくなら他にもお菓子持ってくればよかった!」
「タンタ、これは遠足ではないのですよ?」
「わかってるけどさぁ!」
「お菓子……。他にも何か、ふわふわしたものがあるの?」
 前のめりに聞いてくるノネムに、二人はまたもや顔を見合わせてからすぐに笑顔でノネムに向き直りました。
「ふわふわもあるし、サクサクもあるし、カリカリもある!」
「私はチョコレートが好きです。甘くて美味しいんですよ」
「へぇ……」
「俺はクッキー!」
 三人で穏やかに交わされる会話は鬱蒼とした森には少し似合わない、けれど少年少女としては真っ当で。しばらくお菓子談義を開催しては、ケラケラと笑い合いました。
 やがて時間が経つと誰からともなく口を閉ざします。段々と日が傾き始めているからなのか、マニ洞窟が近づいているからなのか、知らずと心が塞ぎ込み始めていたのです。そんな気持ちとは反対に、突然ぽつんと森の開いた場所にでました。それは、一番最初にノネムがピアノを弾いていた、アンと出会った場所でした。
「ここ……」
 ふらふらとピアノに吸い込まれるように歩み寄るノネムは、ピアノの屋根を手のひらでなぞりました。そのまま側板、鍵盤蓋となぞり、それからポスンと椅子に座って鍵盤を触ります。
 アンとタンタはそれをただ見ていることしか出来ませんでしたが、アンはほんの気持ちピアノの傍によるとタンタの方を向きました。
「ここは今朝、私がノネムを見つけた場所です。ノネムはここでピアノを弾いていました」
「……じゃあ、ノネムはここに気づいたらいたってことか」
「おそらく」
 もうこちらの声は聞こえていないのか、ノネムはひとつひとつピアノの鍵盤を撫でています。二人はそんな様子を見て、教会の聖具室の事を思い出しました。止めなければと思うのに、それ以上にこの光景が当たり前のように思えるのはどうしてか。
 ふと、ひとつ。ノネムが人差し指で押した鍵盤を伝い音が流れました。その音は森を駆け巡りザワりと風を起こした、ような気がしました。少なくともアンとタンタは、自分の胸の奥からなんとも言えない感情が込み上げてくるのを感じました。
 やがて両手を鍵盤の上に置くと、ノネムは曲を奏で始めます。それは無性に泣きたくなるような、笑いたくなるような、今すぐ叫んでしまいたくなるような、眠ってしまいたくなるような、たくさんの理性を押し込めた音でした。
 ピアノを弾いているノネムは、やはり笑っていて。先程マシュマロの事を話していた笑顔とは違う、どこが歪な表情に二人は目を離すことができずにいました。
「いっ……!」
 しかし、突然叫んだアンの声にピアノの音はピタリと止まりました。ノネムが声の方にハッと向くと、そこには黒いモヤに襲われかけているアンがいたのです。
「アン様!」
 慌ててタンタが銃を取りだし黒いモヤに撃ち込みました。バァン!と鋭い音をたてて放たれた弾丸は真っ直ぐ怪物に当たり、怪物は奇妙な唸り声をたててアンから離れます。そこにもう一発タンタが撃つと、黒いモヤは言語化出来ないような叫びを最後に霧のように消えていきました。
 しかし怪物が消えた安心感が来ることはなく、ノネムもタンタも崩れ落ちたアンの元に駆け寄ります。見れば、アンの右手首に小さな黒い痣が出来ていました。
「怪物に触れられたのか!?」
「おそらく……。静電気のようなピリッとした感覚でした……」
 タンタはアンの傍でアタフタと慌てているノネムをキッと睨みつけます。ノネムはその視線を受け、初めて明確に目を見開き傷ついたような表情をしましたが、タンタはそんな変化に気づく余裕などありませんでした。
「やっぱりお前のピアノは災いのピアノじゃないか!疫病神!」
 真っ直ぐな言葉は、ノネムに突き刺さります。
「お前のせいでアン様が傷ついたかもしれないんだぞ!お前は一体なんなんだよ!」
「タンタ……、落ち着いて……」
「アン様、でも!」
 タンタは泣きそうになりながらアンを見ると、アンはゆっくりと首を横に振ります。そしてポケットからハンカチを取り出すとノネムに差し出しました。
「ノネム、地図だとあっちに湖があるはずです。そこでこのハンカチを濡らしてきてくれますか?」
 ノネムはおずおずとハンカチを受け取ると、一度だけ頷いてアンが指した方向に走ります。
 やがて訪れた静寂には、たったひとつ、タンタの震えた息だけが響いていました。