「ここ、シーラ村は栄えてはいないものの村民達の懸命な努力で成り立っています。周りに野山はあるものの他の村まではかなり遠く、自力で生計を立てていかなければならないから大変なのです。この村が栄えるきっかけになったのはロニカ教団の影響が大きいのですが、ロニカ教団というのは、今いるこの教会を拠点とし、神様を崇め、村を導く。そんな存在です。先程私が話していた人が、教団顧問のレイラです。私はこの教会で神の使いとして生きています」

 そこまでアンが説明すると、ノネムは全部理解できないもののある程度はわかった、と頷きます。すると続けてタンタが話し出しました。
「警備隊ってのは、ロニカ教団から生まれたものだな。主に村周辺の警備をしたり、村でなにか揉め事があった時は仲裁に入ったりしてるんだ」
「そういえばタンタ、マニ洞窟で異変が起きたと聞きましたが……それは本当なんでしょうか」
 アンがそう聞くと、途端にタンタの表情が曇ります。
「あぁ、本当だ。ついに村に怪物が降りてきた」
「えっ!」
「もう怪物は退治したから大丈夫だけど……、かなり村全体が混乱してる」
 苦い顔のタンタは、他にも何か思い出したように俯きます。少し震えた肩にアンは気づき、そっと手を置きますが、タンタは変わらず震えていました。
「俺は、……俺が怪物を撃った」
 衝撃的な言葉に、一瞬の沈黙が教会を満たします。けれど本当にそれは一瞬で、すぐにアンが息を飲む音が響き渡りました。
「あの怪物は、限りなく人間に近い“何か”だった。撃ったら消えたけど、でも、痛がってた。襲ってきたけど、何か伝えようと叫んでた。……俺は本当に正しい事をしたのか、未だに整理がついてない」
「正しいかはわからないですが、怪物に飲み込まれた人は同じように怪物になってしまうのでしょう?」
「あぁ、段々と黒いモヤに包まれて自我もなくなるみたいだった」
「……だとしたら、被害を食い止める為にも必要な事だと、私は思います」
 アンのその言葉に、タンタはくしゃりと顔を歪めます。それはまるでイタズラが見つかった子どものようで、親から離れて迷子になってしまった子どものようで、不安定で。縋るようにアンを見るタンタは、薄らと目に涙を浮かべていました。それでも彼は強くあらねばならなかったのです。一度ゆっくり目を瞑ってからもう一度開いた時、そこにもう不安定さはありませんでした。
 すると、教会の扉が重たそうに開きました。開けたのは背の低い一人の青年でした。
「タンタ!やっぱりここにいたんだ!はやく来てください!」
「ハルさん、どうしたんですか?」
 タンタが急ぎ足で教会の入口に行くと、ハルは頭を掻きながら困った表情で言います。
「村で暴徒が生まれたんですよ!今も何とか警備隊で食い止めてるけど人手が必要で……」
「え、暴徒!?」
「とにかく行きますよ!ほら!」
「あぁ、はい!アン様、行ってくる!ここで待っててくれ!」
 忙しなくハルに連れていかれたタンタを、アンとノネムは為す術なく見送ります。やがて訪れた静寂は、しばらく経ってからアンによって打ち消されました。
「私も行ってきます」
「え、ここで待っててって……」
「……行きます。このまま何も知らないでいたくないのです。私はこの村を守る義務がある、だから」
「義務って、なに?」
 教会の入口に足を進めていたアンの足がピタリと止まります。ノネムの純粋な疑問に、アンはとっさに答えが思いつかなかったのです。だから、それを誤魔化すように教会の扉に手をかけ、そのまま後にしました。ノネムはもう、何も言ってきませんでした。

 ロニカ教会から出たアンは村の様子に言葉を失います。
 あちこちで怒号が飛び交い、怪物なんてもういないはずなのに争い合う村は、本当に自分の知っているシーラ村なのか。あんなに笑いあった人達でさえ憎悪に襲われ自我を手放しているなんて現実なのか。優しい優しいあの人でさえ人を殴ってしまうのか。
 時に人間が一番の怪物なのだと、そう書いてあった本をふとアンは思い出しました。そしてそれを目の当たりにした時、自分は本当に何も出来ないのだと、無力さを痛感しました。
 今の私はどう動けば良いのだろう。なんと声をかけるのが正解なのだろう。迷いはアンの体を地面に縫い付けてしまいます。すうっと息を吸って、ゆっくり吐いても心はちっとも落ち着かなくて。それほど、さっきまで村人だった人が暴徒という名前に変わってしまった事実はアンの心を蝕んでいきました。

 そんな風にアンが動けずにいると、突然背後から強い強い衝撃が襲ってきました。痛みを感じる間もなく、アンは意識を手放しました。

 太陽が、もうすぐ空の頂点に触れる頃でした。