そして村の入り口に着くと、そこはまさに地獄絵図でした。混乱に包まれた村は、泣きながら逃げる人、避難するよう叫ぶ人、逃げようとして転んだ人、様々で。どこを見ても胸が痛くなる光景が広がっていました。
そんな村の中心では一人の女の人がたくさんの人に指示を出していて、アンはその人の元に迷いなく足を進めます。その人はアンの存在に気づいた後、すぐにその後ろにいるノネムを見て、目を見開きました。
「アン様、これはどういうことですか」
「この人が森でピアノを弾いていました。害はなさそうなので、連れてきたのです」
「おひとりで行かれたのですか」
「……タンタと向かいましたが、途中ではぐれました」
「……わかりました。その件に関しては後ほどきちんと聞きましょう。許されざる行為な事だけは自覚しておいてください」
まるで業務連絡のような、――実際そうなのですが、それにしても冷たい温度で交わされる会話に、ノネムは不思議に思いました。周りの喧騒が、よりこの二人の会話の冷たさを際立たせていたのです。
「先程、ハルからマニ洞窟で異変があったと連絡がありました。その影響で村は混乱に陥っています。私はここで避難誘導をしていますので、アン様はどうぞ教会にお逃げください」
「村の皆はどうして教会に避難していないのですか?」
「アン様」
強く名前を呼ばれたアンの肩が揺れる。
「今は時間の猶予がないのです。そこの少年は後ほど尋問しますのでここに置いておいてください」
まるで物のようにノネムを扱った事に対し、アンは少なからず腹が立ちました。けれどすぐにこちらを見るのを止めて村の警備隊と話し始めた相手に、強く握り締めていた手からゆるりと力が抜けていきます。代わりにノネムの手を取ると、黙って歩きだしました。戸惑うノネムの視線にも、気づかないフリをして。
そして、教会の重たい扉を開ければ、アンは「どうぞ」とノネムを中に入れました。それから大きな音を立てて閉まる扉を最後まで見届けて、そこでようやく一息つきました。
「急に、色々と、ごめんなさい」
アンがノネムに向かって頭を下げます。対してノネムはぼんやりと言いました。
「大丈夫。アナタの方が悲しそうだし」
その言葉にアンは黙り込むと、そのままゆっくり身廊を渡り内陣に跪きます。それを後ろから眺めていたノネムは、まるで天使のようだと思いました。微量なはずの太陽の光はステンドグラスを通り、様々な色鮮やかな光となり、そしてアンに降り注ぐ。そんな中で黙ってお祈りを捧げているアンは、天使という言葉以外になんと例えられるのでしょう。
てくてくとアンの方に歩いたノネムは、斜め後ろにある座席に座ってその様子を眺める事にしました。そうしている時間は、ノネムの中でなんとも言えない感情を呼び起こしていました。
バァン!
いきなり大きな音を立てて教会の扉が開きました。アンは立ち上がり開いた扉の方を見ると、座ったままのノネムを庇うように立ち塞ぎます。
「アン様!大丈夫か!」
聞こえたのは、凛とした声でした。
「おいそいつ、アン様大丈夫なのか!?離れた方が……!」
走らないように急ぎ足でやってきたのは、気の良さそうな青年。ぴょこぴょこと跳ねた髪の毛は歩く度に揺れ、どこか緩やかな雰囲を漂わせていました。ノネムを捕らえようと手を伸ばそうとしては目の前にアンがいるので伸ばしきれず、困った顔をしている姿は、まるで大型犬のようで。
「タンタ、この人は今現在全く私自身に危害を加えていません。だから大丈夫です」
「今大丈夫だからってこれからも大丈夫とは限らないだろ!ていうか誰なんだ?俺、森の中でアン様とはぐれてホントに不安だったんだからな!」
「それは……、本当にごめんなさい。この人は、森の中でピアノを弾いていた、」
「は!?疫病神を連れてきたっていうのか!?」
タンタと呼ばれた青年は目を丸くしてノネムを見ます。じっと見られて居心地の悪そうなノネムは、視線をさ迷わせながらもまた言われた『疫病神』という言葉について考えていました。
「それは村で勝手に呼んでいた名前でしょう。この人にはきちんと名前があって、……あれ、そういえば名前を聞いていませんでした。あなたのお名前は?」
だから、アンの問いかけに気づかず、あれ?と二人は首を傾げます。やがてノネムは二人の視線に気づくと、二人と同じように首を傾げました。
「あなたのお名前は……?」
「名前……。ノネム」
のねむ。アンとタンタが忘れないよう復唱すると、名前を呼ばれたノネムはほんの少し気恥ずかしくなってポリポリと頬を指で掻きます。そんな姿を見たタンタは、段々と怒りの感情が萎んでいくのを感じました。自分と同い年くらいに見えるノネムは、見た目と反して仕草や話し方がとても幼かったのです。だからなんとなく、悪い人には見えないと思いました。
「俺はタンタ。ロニカ教団で警備隊に所属してるんだ。今は捕まえないでおくけど、アン様を少しでも傷つけたら絶対許さないからな」
そう言ってじぃっとノネムを睨むと、ノネムは肩をすぼめてみせます。アンはそんな二人の様子を見て、少しだけ微笑みました。
「ノネムはシーラ村の事を知っていますか?ロニカ教団の事や、それからマニ洞窟の事も」
努めて優しく聞くと、ノネムは首を横に振ります。アンとタンタはお互いに顔を見合わせると、もう一度ノネムの方を見ました。純粋無垢なその瞳は嘘をついてるとは到底思えず、アンは疑問を抱きます。
この人は、どこから来たのでしょう。
けれどそれよりも先に彼に説明をしなければ、とも思いました。