ノネムは目を覚ますと、まずはひとつ、うんと伸びをします。それから、大きなあくびも、ひとつ。
「ふわぁ~」
いつもより暗い朝。でも、ノネムは気にせずピアノに向かいます。誰もいない、森の中のピアノ。ノネムがひとたび音を鳴らせば、それは森の中を泳ぎ、木々たちが合わせて揺れ、鳥さえも、さえずりだすのでした。
そんな、あたりまえの朝。
しかし、ガサガサとどこからか音がして、そこから少女が出てきたのです。ノネムは気にせずピアノを弾いていましたが、やってきた少女はノネムにまっすぐ近づき、腕をつかみます。そこでようやく人に気づいたノネムは、ハッとして腕をつかんだ少女の方を向きました。少女は無表情のまま、ノネムを見つめます。
この人が、……ようやく会えた。
そう心の中で呟くと、次にノネムに向かって「ピアノを弾くのをやめてくれませんか」とだけ、言いました。
ノネムは意味がわかりませんでした。だって、自分のやることとといえばピアノを弾くこと以外大してなかったのです。だから、「どうして?」と掠れた声でたずねれば、少女はほんの少しだけ、ムッとした表情をしました。
「あなたのピアノ、よくないのです」
「よく、ない?」
「そう。だからもう弾かないでください」
「それは……、出来ない」
「どうして?」
「どうして、も」
「だから、弾かないでと言っているのです」
「やだ」
「やだじゃなくて!」
二人の押し問答がしばらく続いたのち、やがて少女が大きなため息をついて、ノネムから腕を離しました。
「わかりました。では、お互いに『理解』しましょう」
「理解?」
ノネムが首を傾げる。対して少女はグッと手に力を込めてノネムを見つめました。これは少女の癖であり、少女が緊張している証拠でした。
「お互いの考えを知らないまま話していても悲しいでしょう?だから、話すのです。私達にはきちんと言語があるのだから。神もその為に人間に言語を与えたのです」
「神……?」
「……私の名前はアン。この森から一番近いシーラ村に住んでいます。村の教会で毎日神様のお声を聞いたりお祈りをしている、神の使いとして生きています。それで今日ここに来たのは、ええと、マニ洞窟ってわかりますか?そこには神様が眠っていると言われているのですが、最近、不穏な空気が漂っているらしく。なんでも、怪物が出る、と。そしてその原因が、森から聞こえるピアノのせいなんじゃないかと村で話が上がり、こうして私が直々に来たという訳です」
アンはそこまで語ると一息はいて、胸の前で手を組みます。それはまるで、神聖な何かにお祈りを捧げるようでした。一方でたくさんの情報を与えられたノネムは、状況整理が上手く出来なくて戸惑いを隠せずにいました。どこから理解をすればいいのかも、何を言われたのかも、もはやわかりません。だから黙っていると、アンは見兼ねてまた話し出しました。
「あなたは、村で疫病神だと言われています。でも、私にはまだ判断材料がありません。事実ではないのなら、それはあなたにとってひどい事だから」
「やくびょうがみ……って、神様ってこと?」
「……いえ、疫病神は、その、人の事です」
「でも、神なの?」
「ううん……」
「ボクは、神様だと言われてるの?アナタはボクの使いなの?」
さっきとは打って変わって質問をたくさんしてくるノネムに、アンは少したじろぎます。ノネムという人は、表情の読みにくい、善悪どちらを灯しているのかわからない瞳をしていました。理解出来ないと困る眉も、自分は神様なのかと問う口も、どれもがほんの少し常人とは違う気がして、本当にこの人は神様なのかもしれない、などとアンは考えてしまいます。けれどそんな思考はすぐにかき消しました。
だって、神様は。
すうっと息を吸って、ゆっくり吐いていく。そうして段々とクリアになっていく頭の中。アンにとって最も恐れるのは、自分が自分自身の思考に飲まれてしまう事です。それは神の使いとしてあるまじき事態であり、避けるべき事であり、乗り越えなければならない試練なのです。だから常日頃、平常心を保てるように訓練をしていた結果、ゆっくりと深呼吸をするのは身についた術でした。
ノネムときちんと目を合わせたアンは、ぼんやりと思います。この人の瞳は、紅葉のように紅くて綺麗、と。オレンジも混じったその色は、曇りのないはずなのに奥が見えない不思議な色で。
「人間は、神様にはなれません」
そう告げたアンの声は、どんな声色だったのでしょうか。アン自身にも、よくわからない感情でした。
すると、突然森から一斉に鳥たちが飛び立ちました。何事かと二人が上空を見上げると、次の瞬間にはけたたましく警鐘の音が響き渡り、森全体がザワザワと騒ぎ出したのです。アンはグッと顔を顰めると、ノネムの方を向いて叫びました。
「村の警鐘です!村に何かあったのかもしれません!」
そのまま慌てて村の方へ走り出そうとして、……ハッとノネムの方を振り向きます。キョトンとしたノネムは、未だ状況を理解出来ていないようでした。
村に連れて行っても危ないかもしれない。けれどこの人をここに一人置いていく訳にもいかない。
そう判断したアンは「着いてきてください」と言い捨て、村の方に向かって走り出しました。後ろから確かに着いてくる音に、なぜか安堵しながら。