新田佳那子という人間は運の女神に愛されていた。
 書いた小説は中高生に人気を得てシリーズ化。重版に重版を重ねてアニメ化もされ、今度は実写映画化もされるらしい。
 思えば彼女は大学の時からたくさんの人に愛されていた。恐らく運というものは生まれた時から大体は決まっているのだろう。
 そうでないと困る。劣等感に苛まれた私が負の感情に溺れて死んでしまう。いっそその方が楽になれて幸せかもしれないが。こんな死に損ないが生きていても社会に貢献は出来ない。
『高菜日瑚、新作シリーズ始動!』
 そんなネットニュースを見ていると、メールの通知が携帯を揺らした。開くのが億劫で、画面をオフにして携帯を机の上に伏せて置く。
 時折、自分自身がこの世で最も馬鹿らしい生き物ではないのかと思案する事があった。存在するだけで害をなす外来種か何かで、自分はそれがどうにかバレないように一般種に擬態しているのだとも。
 上手く死にたいのに死ねなくて、生きたくない。そんな憐れな生き物なのではないかとも。


 小坂鈴という人間は才能に恵まれていた。
 書いた小説は文庫化までは行かないもののコアなファンがついて、今では月刊誌に読み切りを時折載せている。
 思えば彼女は大学の時からその才能を遺憾無く発揮していた。恐らく才能というものは生まれた時から大体は決まっているんだろう。
 そうじゃないと困る。どれだけ足掻いても得られないものがあって、それを直視してしまう度に呼吸が上手く出来なくなる。いっそその方が良いのかもしれないけど。誰にでもなれるピエロになるくらいなら社会の藻屑になった方が楽だろうし。
『溝口憂』
 表紙の隅に小さく書いてある名前を見てから、その雑誌を捲る。見開きに収まる話は、常人には全て理解出来ないほど壮大で濃厚だった。読み切った後のなんとも言えない満足感はいつだって私をおかしい気持ちにさせる。
 私は結局どこまでも理想には届かないんだろう。小坂鈴がいる限り、この世で最も哀れな人間なのだ。
 あぁ、なんて可哀想な私。なんて悲劇のヒロインぶってみるけど、それがまた自分を追い込んでいく。
 上手く生きたいのに出来なくて、死んでしまいたい。本当に私は哀れな人間なんだ。


「溝口先生は連載持つ気ないんですか?」
 タブレットから聞こえてくる声が不思議そうに聞いた。新しく担当になった編集者は比較的新人の女の人だった。
「ないです」
「え~、もったいない!人気なのに!」
 少し高めの声が耳を撫でる度に、ゾワゾワと気味の悪い何かが背中を駆け巡る感覚に囚われる。手にしていたシャーペンをくるりと回せば気持ちばかりそれを振り切れる気がした。
「人気と言いますが、具体的にどこが?」
「え?」
「貴女は私の作品のどこが人気だと思いますか?」
「えぇ?えっと……」
 問いかけに言葉を詰まらせる彼女は多分何も悪くない。おそらく今悪いのは意地の悪い質問をしたこちらの方だ。でも止める事は出来なかった。己の浅ましさに表情が歪む。自分自身人間付き合いが良くない事は知っていたが、これはただ単に自分に問題があるのだろう。
 極めつけとして無言になった通話を切断すれば、心做しかの安堵と後悔が同時に押し寄せる。
 後ほど『あの時はすぐに答えれなくてすいません!でも私は溝口先生には魅力があると思ってます!』という文から始まる長文メールが届いた。
 それが余計この体を蝕んだ事なんて、誰も知らない。


「高菜先生、これ献本です!」
 どさり!と机に置かれた紙袋には到底本だけではなさそうな程パンパンに膨らんでいた。タヌキみたいなおじさん編集者は、ガハハと大きな声で笑う。
「他にもグッズとか、なんか、そこら辺も色々入ってるんで!」
「ありがとうございます」
「高菜先生にはいつもお世話になってますからね~!今後ともよろしくお願いしますよ!」
「はい!こちらこそ!」
 ポンポンと叩かれた肩は地味に痛いし、謎にすごい圧を感じてそれ以上何も言えなくなる。
 結果的に今回絶対言おうと思ってた事は一ミリも言えずに出版社を後にした。
 絶対あのおじさん、私の事を金づるにしか見てないんだよなぁ。なんて、心の中で呟いて。重たい紙袋を揺らしながら帰路を歩く。春から夏にかけての天気は気まぐれで、今日も昼は暑かったのに夜は寒いときた。念の為に持ってきた上着はMVPだろう。
 信号待ちで止まると、向こう側のビルにアニメ化が決まった作品のポスターが見える。自分の事のはずなのに、なんだか遠い世界の話みたいだと思った。
「もう書きたくない」
 その言葉は、まだしばらくは誰にも言えなさそうだ。


 その日は在り来りな表現かもしれないが月が見たかった。次に書く話に繋がれば万々歳、そうじゃなくともメンタルの回復に最適役。
「鈴さん?」
 久しぶりに本名で呼ばれる事がなければ、の話だが。
 自分の事をそう呼ぶ人は大学時代の知り合いしかいない。それに加えて特徴的なその声は忘れる事の出来ない、脳に深く刻まれた声ときた。
 なんて自分はついてないのだろう。
 今更悔いた所でもう遅い。少し肌寒い腕がポツリと鳥肌を見せた所で、立ち上がるにはタイミングを逃してしまった。
「鈴さん、ですよね!」
「……あぁ、はい、まぁ」
「うわぁ、お久しぶりです。新田です!覚えてますか?」
 忘れてる訳ないだろう。と毒づく訳にもいかず。
「あぁ、はい、まぁ」
 テンプレの返事を繰り返す。それにも関わらず彼女は嬉しそうにはにかむものだから、居心地の悪さが急激に上昇した。手に持っている袋には詰め込まれた本やグッズが見えて、ジリッと心の奥が点火する。
 やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ。
「あの、今月の鈴さんの小説読みました!ほんと、言葉に出来ないくらい今回も良くて……!」
 人間に擬態している私を、嘲笑うのはやめてくれ。


 衝撃だった。嬉しさと混乱と恐怖で満たされた体は言うことなんて聞いてくれない。一度開いた口は馬鹿みたいに止まらなくて、馬鹿丸出しの発言をポロポロと投げつけていく。
 そうやって言えば言うほど、自分の浅さに絶望してしまうのに。それでも止められないのはどうしてなのか。
「鈴さんの書く話って、唯一無二って感じがするんですよ」
 私の書く話なんて誰にでも書けて、どうせ私が書かなくても大丈夫なんだ。流行りが過ぎればすぐに私の事なんか忘れるだろう。そんな消費されるコンテンツに自分がなってしまった事が悔しい。虚しい。
 助けて、ほしかった。
「無理です」
 ようやく聞こえた声は小さく、思わず「え?」と聞き返す。相手の表情は俯いているから見えなくて、覗き込もうとしたらもう一度聞こえた。
「無理です」
「え、なにが」
「これ以上は、無理だ……」
 壊れたラジオのように何度も「無理」と繰り返す姿がなんとも不思議で、私の中の偶像はもやもやに包まれる。
 人が壊れてく様とは、こういう事なのか。
 やけに冷静な思考がそう呟く。手から離れた紙袋がドサッと大きな音を響かせた。




「私を殺しませんか」

 それはどちらが言ったのかわからない。ただ、言葉は夜闇にじんわりと溶け込み、オレンジの街灯が柔らかく二人を包む。
 上手く死にたくて、上手く生きたくて、死ねなくて、死んでしまいたくて、生きたくなくて。

 生きるか、死ぬか。そこから更に、第三の選択肢。
 その選択肢は、救いなのか。