今日は。今日こそは。今日だから。
俺はやってやるぞ、やってやるんだからな。
部屋の真ん中で一人、ゴミ袋を手にして決意表明をする。今からやるのは掃除でも断捨離でもない。『思い出を捨てる』のだ。この行為は俺だからこそ出来る素晴らしい事であり、絶対的に正しい。俺がそう思えばそうだからそうだ。
正直半分くらい何を考えているのかわからなくなってきたが、とりあえずいらなさそうなヨレヨレの服から袋に突っ込んでいく。ゴミ袋が破れないように柔らかい物から捨てるといいとどこかの本で読んだ。それから次にシュレッダーにかけた散り散りの紙たちも入れる。一つ一つゴミ袋に入れていく度に、心の中もスッキリとしていくような気がした。
どうしてこうなったのかは最早わからない。理由としてあげられるものが多すぎる。ボツになった論文に対しても、同じゼミの奴に対しても、バイト先の店長に対しても、俺はムシャクシャしているのだ。人間は想像以上に難解で、理解しようといくら努力しても無理なものは無理。最近ようやく、努力不足と罵られるくらいなら距離を置いた方がマシだと気づき始めた。しかし、いくら距離を置いても喰らうダメージがゼロになる訳ではない。人間というものは哀しきかな、人間と関わらないと生きていけないのだから。
だが、かのモンテスキューは言っていた。
『真に偉大な人間になるには、人々の上に立つのではなく、彼らと共に立たなければならない』
『この世で成功するコツは、馬鹿のように見せかけ、利口者のように行動することである』
これだ。これに尽きる。どれだけ俺自身がバカにされようが、否定されようが貶されようが別に構わない。俺の素晴らしさは俺自身が一番理解している。だから俺はどんな場所の隣人にでも、優しく接していくのだ。それで、いい。
ボツになった論文を、ゆっくりとシュレッダーにかける。ガガガガと少しうるさい音を立てながら消えていく様をしっかりと見届けていく。それからもう使わなくなった物や読まなくなった本も捨てたり一纏めにしたりしていく。
そうして途中から無心でやっていた『思い出を捨てる』行為は、いつの間にか終わりに近づいていた。
どんなものでさえ、呆気ないものだな。
ふと息を吐きながらそんな事を考える。普段はあまり物が捨てられないタチだが、ひとたび思考が切り変わればあっという間に捨てられるのだ。これほどに面白い事など他にあるだろうか?いや、ない。
パンパンになったゴミ袋達を玄関の方に纏めて置き、冷蔵庫から水を取り出しコップに注ぐ。それをグイッと一気に呷れば、思っていたより熱くなっていた体に染みた。自分の中でじんわりと気分が高揚していくのはわかっていたが、これ程までとは。それに、かつてない心の軽さと言ったら!
またも体が熱くなってきたので窓を開ける。するとどうだろう、またかつてない心地良さが俺を襲った。思わず口角が上がる。この世の幸せ全てを占領しているような、そんな気分だ。
今なら、どんな隣人にも優しく出来る。
そう確信した俺はスマホを起動させると、未読のまま放置していたグループチャットを開く。ゼミの中で色んな案が出て揉めに揉めていたが、それもどうやら落ち着いてきたらしい。じっくりと未読部分を読み進めて、ようやく最新のメッセージに追いつく。
『やっぱり鈴木の論文メインで行きませんか?』
『そっちの方が効率は良さそう』
『異議なし』
『あとは鈴木さんの意見次第ですね』
またも口角があがる。
なんだなんだ、世界よそんなに俺の味方をしないでくれ。
とりあえず網戸を閉めてから、上機嫌でメッセージを打つ。『論文ならさっきシュレッダーにかけてしまった』と。すると瞬時にいくつかの既読がつき、それぞれが嘆きの文章を送ってきた。それらをニヤニヤと眺め、最高に面倒臭い己の性格に堪らなさを覚える。
『諸君、喜べ。データはパソコンにまだある』
そう送り終えた後、心地良い風も段々と弱まってきたので窓も閉め、パソコンを起動、……しようとして止める。ふと玄関の方にまとめて置いたゴミ袋達を見つめた。
思い出が、たった一枚の薄い袋に入っただけでゴミ扱いとは、なんとも心が。
「……いや、これが未練がましいという事か」
もう一度冷蔵庫から水を取り出し、ペットボトルに口をつけて一気に飲む。少し口の端から零れたが、そんなものどうだってよかった。
そう、どうだっていいのだ。
ただ少しだけ気持ちが落ち着きすぎて、よくないように見えてしまっただけ。そう思えてしまっただけ。さっきまであんな上機嫌だったのにどうしたんだ自分は。急にたくさんの思い出を捨ててしまった反動か?
パタン、と冷蔵庫を閉め、そのまま背にしてもたれる。スマホを見ると、また未読のメッセージがいくつか増えていた。開けば『冗談マジでやめてくださいw』『鈴木、真面目にやれよ』という文字の羅列。大げさにため息を吐いて、これだから冗談の通じない奴は……と項垂れた。
いくら自分自身の内を整えても、外で上手く暮らせなきゃやってけないとは。やはりそう簡単には心は変わらないのか。綺麗になった部屋は、はてさて何が置いてあったのかもう朧気だ。俺にとって思い出とはそんな薄いものなのか。考えすぎだろう。だけども考えずにはいられないのが性分で、だから。
ピーンポーン
不意にチャイムが鳴った。
「は、はい!」
と返事をすると、
「隣のメンダコです~。前に好きだって言ってくれた煮物、また作ったから玄関かけとくね〜。よければ、どうぞ~」
そんな柔らかな声が玄関越しに届いた。しばらく呆然としていたが、ハッとドアを開けると、ドアノブに可愛らしいメンダコの保温バッグが掛けられていて。そして隣人の、大家さん……こと、メンダコさんの姿は既にいなかった。
俺はとりあえず保温バッグを有難く受け取り、部屋に入るなりすぐさま保温バッグからタッパーを取り出した。それから急いで箸も持ってきて「いただきます」と手を合わせる。
一口目には好物の人参を。それから二口目には大好物のコンニャクを。一つ一つ丁寧に口に運び、噛み締めて、飲み込む。味の染み込んだそれらは噛む度に優しい味がして、胸から腹まで、更には体全体から心まで温まるような感覚がした。
優しい隣人も、いたもんだ。
思い出を捨てた後の高揚とはまた違う、じんわりとした熱が俺の思考をふわりと包む。
いくら形を捨てたって、心の中に思い出は根付いているのか。そしてそこから生まれた花や緑で、俺という人間が形成されるのか。かのウィトゲンシュタインもこう言っていた。
『きみがいいと思ったら、それでいい。誰かから何と言われようと、事実が変わるわけじゃない』
と。先程から俺は俺自身を疑いすぎているような気もする。そこから生み出される何かもあるかもしれないが、基本的に自分の首を絞める時間が大半だ。それならば。
この煮物のように、毎日は思い出さなくとも確かに心に染み付いた思い出があれば良いのではないか。それだけで、自分は優しくなれるのではないか。そしてそんな優しい思い出を誰かに渡せられる存在になれれば、もっと良いのではないか。無論、それが簡単な事ではない事はわかる。わかるとも。でも、だからといってそれで諦めるのは可笑しいだろう。
タッパーの中が空になったのに気付き、洗い場に持っていく。とりあえず水につけ、それからパソコンの電源を付けに行った。カチ、と無機質な音はどこか冷たくも感じる。けれど恐れる事は無い。この無機質な箱からたくさんの思い出が生み出されていくのだ。
『皆に見せた論文と、更にブラッシュアップしてみた論文、どちらもデータを今から送る』
メッセージを送り、スマホを机に置く。そして椅子に座ろうとして、俺は最も大事な事をすっかり忘れていた事に気付いた。慌てて流し台の所に走り、水で満たされたタッパーを見つめる。
手を合わせて、一言。
「ご馳走様でした」
俺は今日も、この部屋で生きている。