家の近くにある大学の通学路に小さな花屋があって、そこが今のアタシの職場だ。昔から良くしてもらってる叔母さんから、せっかくだからどう?と誘われてそのまま勤める事にした。大学に行くかずっと迷ってたし、担任の先生からは内申点もいいから推薦出来るって言われたけど、結局は働く事に決めて。それに理由なんて大したもんはない。多分ね。

「茜ちゃーん!そこの温度確認終わったら水やりお願いしてもいいー?今日はめちゃくちゃ暑いらしいの!」

「マジですかー?了解でーす!」

 店の奥にいる叔母さんの声に返事をして、温度チェックリストの最後に『雨宮』と記入する。それからもう一度、花の入った冷蔵庫を隅々まで異変がないか確認して、チェックリストを棚に置いた。そうして店先に向かえば、まだ早朝だってのに太陽がガンガンに照りつけていて思わず「うわっ」と声が出る。

 今年も夏が来たんだ。暑くて、溶けてしまいそうな夏が。溶けてしまいたい夏が。

 

「元気になれなれ~」

 水は花じゃなく根元に。そう何度も言われた事を頭の中で唱えながら、朝だというのに元気に鳴き出すセミの声をBGMにひとつひとつ水を与えていく。変わっていく土の色を観察しながらなんとなく大きく息を吸い込んだら、生花特有の匂いがアタシを満たした。

 ふと思い出す、手作りのハーバリウム。高校最後の夏に作ったあのハーバリウム達は、結局誰の物になってしまったんだろう。せっかくなら一つくらい自分で買えばよかったな。

 なんて思う事は、もう許されるだろうか。

「茜ちゃん、どう?」

「もう水やり終わるとこです!今日は確か昼から病院ですっけ」

「そ。夕方は妹に管理お願いしてるから、茜ちゃんは昼に上がっちゃっていいわよ」

「わかりました。あっという間にお腹大きくなってきましたね」

「夏が終わる頃には産まれるかなぁ。楽しみね」

「はい。ほんと楽しみです」

 愛おしそうに膨らんだお腹を撫でる叔母さんの表情は優しさに満ちている。それにつられて笑顔になれば、叔母さんはアタシが持っていたジョウロを手に取りニッといたずらっ子のように笑いかけてきた。

「茜ちゃんはどうなの?彼氏くんと!」

 その問いに、思わず顔に熱が籠る。露骨に叔母さんから顔を背ければ、太陽の光が直に当たって眩しくてしょうがなかった。たらり、と汗が首筋を撫でる。なんて返せば良いのか一瞬では思いつかなくて言葉に詰まれば、それを叔母さんはどう受け取ったのか豪快に笑ってアタシの背中を叩いた。

「なぁに!照れることないじゃない」

「いった!もうっ、照れてるわけじゃないですって!ほんと……」

「若いうちよ、夏を思いっきり楽しめるのは」

 ワントーン下がった叔母さんの声に思わず顔を上げる。まるで私の事さえも娘のように思ってくれているような慈愛の表情に、胸がグッと詰まるような感覚を覚えた。

「なんて言うと、若い子を困らせちゃうんだけどね!言わずにはいられないのよ~。ごめんなさいね」

「いえ……」

「まっ、とりあえず今日は昼になったら勝手に上がっちゃってね!」

「わかりました」

 ぺこりとお辞儀をすれば、くらりと少しの目眩がして。顔を上げてから、一度裏に戻ってスポーツドリンクを飲んだ。

 夏はあんまり得意な方じゃない。怪我をしたサッカー大会の事を思い出すし、他にも色々……。色々思い出してしまうから。

 なんて感傷に浸りながらペットボトルの蓋を閉めて、時計を確認する。時刻は七時を過ぎた頃。人通りが少しづつ増えていく。ここの花屋でのアタシは基本自由行動で、お客さんが来たら対応するし、そうじゃなければ花の状態をチェックしたり在庫を確認したり様々。でも今日は花束とかの予約もないし、あともう少しだけ暇そうだ。

 そんな事を思いながら今一度店先に出向けば、とある人物とばったり出会った。その人物は店頭の花達を難しそうな顔で見ていたものの、アタシに気づくとパァっと顔を綻ばせる。まるで小型犬かなんかだな、とか心の中でひっそり思った。

「おはよ」

「おはよ。大学行くにしては早すぎない?」

「ここに寄るから早く来たんだよ、つか大学夏休み入ったし」

「ふぅん……」

 シッポめちゃくちゃ振ってる癖に態度だけは一丁前で、そんなあべこべさに思わず笑いそうになる。

「花、少なくない?」

「叔父さんが市場に仕入れに行ってるからね。もうすぐここに着くと思うよ」

「なるほどな。じゃあもうすぐお前は忙しくなるわけだ」

「まぁ、仕入れた花の処理とか管理とかあるから開店までは忙しいんじゃない?」

「なるほどな……」

「何、朝早くから何の用?」

 淡い期待から少し急かすような発言をしてしまった自分に気づいて、やば、と口を噤む。だけど、店先の花を睨むように見つめている相手には何一つバレてないようで、ホッと胸を撫で下ろした。花の知識なんて対してない癖に必死にわかった風に装っているのは、いつもの事。

 『彼』が花屋に来るようになったのは、ちょうどアタシが花屋で働き出して一ヶ月の五月だった。高校の同級生でアタシの思い出の至る所にいた奴。そんな印象だったけど、大学に入学して髪を染めた彼は少し雰囲気も変わって。

 どうしてか週に一回、花屋にやってくる。

 理由を聞いたら何かが変わってしまいそうで、来るのを当たり前のように思ってるって知られたくなくて、温いもどかしさの中でずっと見て見ぬふりをしていた。

「今日夏祭りあるの知ってる?」

 急に問われて思わず反応に遅れる。それから記憶を探って、ようやくひとつの回答にたどり着く。

「市民センターの?」

「そうそう。せっかくだから行こうかなーと」

「ふぅん」

「……今日夕方以降暇?」

「え?」

「や、その、お誘いなんですけれども」

 

 

 

              ◆◆◆

 

 

 

 別に、期待してるわけじゃない。先を急いでるわけでもない。ただ純粋に夏祭りに興味があったから。

 そんな言い訳を並べて、市民センター前に佇む彼の所に歩みを進める。

 正直ずっと不安だった。真っ直ぐ好きと思えるようになりたいと思うのに、心のどこかで『本当に信じてもいいのか』『これは恋なのか』『好きってなんだっけ』って、ぼんやりとしたモヤモヤがアタシの足を止めさせる。実際本当に止まってしまった足は歩き方を忘れてしまって、あと数メートルの距離が果てしなく思えた。

 蝉の鳴き声が響く。たくさんの人が行き交う。空が段々と赤くなる。その赤は、熱を持っているのだろうか。あの日幸せにはなれなかったシンデレラは、また新しい物語を夢みていいんだろうか。

「なんでそこで止まってんの、この距離を迎えに来いって?ワガママプリンセスさん」

「……相変わらずそのネーミング恥ずかしくないの」

「死ぬほど恥ずかしくて無理、今が夕暮れで良かったってめちゃめちゃ思ってる」

「バカじゃん」

「うるせ~理系大学生様だぞ~」

 気づけば笑ってる自分の頬に触れて、その熱さに驚く。溶けてしまいそうだ。だから、この赤い空がもう少しだけ続いてくれないかな、なんて。

 こっそり心の中で願った。