その昔、涙で魔力を増す事の出来る村があった。喜怒哀楽、状況に応じた涙を流す事で力を増幅する事が出来たのだ。そしてその村では子供は必ず「瓶色」と呼ばれる授業を受けていた。
 特別な瓶に涙を落とし、瓶の色の変化によって的確な感情の涙を流せたか確認をする。
 感情の色は単純だ。どんな涙にも感情は生じる為、初めは上手く出来なくとも色はとりあえず着く。そこから些細な感情の変化を覚えていく為に授業があるのだが、唯一特殊な生徒がいた。
 どれだけ涙を瓶に落とせども、瓶に色が着かないのだ。
 透明な瓶を抱えながら涙を流す生徒は、途方に暮れていた。
「授業はここまで。クレアさん、貴女また色が着かなかったのね。お医者様にはちゃんと診てもらったの?」
 クレアと呼ばれた少女が首を横に振る。教壇に立っていた教師はわざとらしく肩をすぼめて悲しい顔をした。
「それはいけません。今日中にでも診てもらいなさい。はい、では授業はここまでお疲れ様。また来週」
 あっという間に騒がしくなった教室。その端でひっそりとクレアは瓶を鞄に詰め、そのまま学校を後にする。
 クレアには家族がいなかった。気づいた時には一人だった。ただ、一緒に暮らしているお婆さんはいたけれど、必要最低限の会話と接触しかなく、クレア自身も家にいる事は少なかった。
 だから今日も真っ直ぐに家に帰る事なく、ある場所に行く。
 ……行こうとした。
「あのぉ……」
 森の小道に入った所でふと誰かに話しかけられる。まさか自分に話しかけたとは思わず、クレアは素通りしようとした。
「あのぉ、すいません……。メモリ村はここで合っていますか?」
 強引に目の前に立ち塞がった青年に、クレアは戸惑う。答えようか迷って、しばらくして、ようやくと口を開いた。
「そうです」
「よかったぁ!ボクね、ここに用があってきたんです。あ、もしかして君もメモリ村の子?だったら君でもいいのかな。とある『瓶色』を探しててね。よければ君の」
「無理です」
「待って待って、話だけでも聞いてほしいんだ。ボクの名前はヒューって言うんだけどね、訳あって、どうしてもメモリ村の魔力が必要なんだ」
「無理です」
 ずっと喋り続ける青年、ヒューの言葉を遮って、クレアは先に進もうとする。けれど、それを更にヒューが体を張って遮るもんだから、クレアは泣きそうになった。
 今の涙に色が着くなら何色かしら。いや、私の涙に色なんかつかないんだったわ。
 グッと唇を噛み、涙を溢すまいと堪える。それを見たヒューは、慌ててポケットからハンカチを取り出しクレアに差し出した。
「ごめんごめん、泣かせるつもりはなかったんだよ、本当さ」
 『瓶色』が欲しいと言う癖に泣かせたくないとはどういうことか。
 目の前の奇妙な青年に、クレアは丸い目を更に丸くして、そしてやんわりとハンカチを持つ手ごと押しやる。さっさとここから立ち去りたくてしょうがなかった。
「君の名前は?」
「村なら、あっちにいけば案内所があります。そこで、きっと、貰えると思うので」
 それでも話しかけてくるから、ついにとクレアはその場から走り出す。けれど、一歩前に行った途端に体のバランスを崩し、大きく転んでしまった。じんわりと痛みを伝える膝が苦しくて、悲しくて、倒れ込んだクレアはついにと涙を溢す。
 その光景を見ていたヒューは思わず息を呑んで、それから慌ててクレアの元に近寄る。そして手に持ったままのハンカチを膝に当てて、涙を拭く為の物がなくなった事に気付いた。
「えっと、どうしよう、ごめんね」
 とりあえずと右の袖口でそっと涙を拭けば、じんわりと服の繊維に涙が溶け込む。クレアはこれまた目を見開いて、目の前のヒューを思いっきり押しやった。
「何やってるんですか……!私達の涙は村の人以外直接触れちゃダメなんですよ!魔力が付いたらどうするんですか!」
「へ!?あぁ、そっか、ごめん……!」
「私だから、よかったけど……」
 そこまで言って、クレアは自分の虚しさに口を閉じる。
 昔から自分の涙には色がなかったのだ。ずっと、ずっと。周りからは感情のない子だと言われ続けてきた。大人達から「魔力の籠った涙は村の人以外には触らせてはダメ」といわれていたけれど、私はきっと破っても大丈夫なんだろう。
 だって、どれだけ瓶に涙を注いでも、そこにあるのは色の変わらない透明な瓶なのだから。
 すると、二人の頬にポツポツと水滴が落ちてきた。ほぼ同時に上を見上げると、いつの間にか空は曇天に変化しておりゴロゴロとどこからか音も聞こえる。
 まずい。とクレアは顔を強ばらせた。
 今日が『その日』だなんて聞いていない。
「っ、来て!」
「えぇ?ちょっと、急にどうしたんだい!」
 慌ててヒューの手を取りクレアは走る。走って、走って、やがて、ようやく屋根のある公園に辿り着くと、そのまま屋根の下まで走った。それからクレアはヒューの手を離し、乱れた息を整えようと必死に胸を抑える。
「きゅ、きゅうに、何があったんだい!」
 同じく息が上がっているヒューが問いかけると、少しずつ落ち着いてきたクレアは恨めしそうに雨が降る空を見上げた。
「メモリ村に雨が降るのは、年に数回だけで……。涙の魔力が色んな所に溶けてしまってるから、雨が降ると、魔力が至る所に浮上して危険なんです。だから、雨の日は事前に通達が来て、家から出ないようにして……。それで……」
 一気にそこまで話して、口を噤む。この先の話を初めて会ったこの人に話していいのか、クレアにはわからなかった。
「……雨の日は、二十歳の人の命日なんです」
 サラサラと、雨が景色を濁していく。ドロドロと、少しずつ地面がぬかるんでいく。雨の匂いで充満した空間に、二人は立っていた。涙のように滴った雨がヒューの頬を伝う。
「それは、どういう……」
「メモリ村の子どもは涙から魔力を抽出して、二十歳になる前に結婚させられて、子どもを産んで、それからさようなら。そして最期は雨に導かれるように、ゆっくり死んでいく。必ず」
「そんなわけが」
「私達の涙は、命なんです」
 命を懸けて泣いているんです。それでも貴方は、涙が欲しいですか。
 クレアがヒューの方を見ると、呆然としていた。その顔を見て、クレアは眉間に力を入れる。グッと、鼻にも力を入れた。
『透明な癖に、クレアは泣き虫だ』
 色んな人に言われてきた言葉通り、クレアの涙腺は人より遥かに緩いのだ。それは泣く練習を重ねたからじゃない。ただ、人より感情が強く動きやすいだけだった。
 ゴソゴソと鞄から瓶を取り出し、嘔吐するように瓶に顔を突っ込む。本来顔は突っ込まないけれど、今は泣いてる顔を見られたくなくて、そうした。
 一粒、また一粒と瓶に涙が溜まっていく。どうして泣いているのかはもうわからない。涙で色が着けば、わかるのに。
「クレア」
 不意に名前を呼ばれ、クレアはハッとして瓶から顔を上げた。名前を呼んだヒューの方を向くと、思ったよりも近い所に彼がいて、思わず一歩後ろに下がる。
「鞄の中のノートに名前書いてたから。君の名前だよね?」
 雨と混ざった涙がクレアの頬を伝う。それをヒューは優しく、努めて優しく右手の親指で拭うと、視線を合わせる為に少し屈んだ。
「クレア。僕と旅に出ようよ」
「え……?」
「この村を出て、もっとたくさんの景色を見るんだ。美しい景色、見てるだけで苦しくなる景色。それからたくさんの人とも出会うんだ。人ってのはとても面白いよ。とても自由で、とても汚くて、見ていて飽きないんだ」
 そしてヒューはクレアの手元からそっと瓶を取ると、未だ雨の降る空に透かしてみせた。瓶の色は、相変わらず透明のままだ。けれど、ヒューがその瓶を右手で撫でた瞬間、瓶から眩い光が溢れ出した。クレアは目を開けていられなくて、ぎゅっと目を瞑る。それから少しだけ経っておずおずと目を開けると、そこにはやはり透明なままの瓶があった。見間違いなのかとヒューを見ると、彼はこれ以上ないほど嬉しそうな顔をしていて。
「やっぱり……、やっぱりそうだったんだ。君の涙は瓶に色を着けない。けど、確かに魔力は込められている。それもとてつもない魔力が……」
「瓶の色が変わらないのに、魔力なんてないですよ」
「いいや、それがあるんだ!面白いことに!あっはは!ようやく逢えた、ようやく見えた!」
 一人盛り上がるヒューに、クレアはついていけず戸惑う。けれど自分の涙で喜ぶ人は初めてだったし、魔力があると言われたのも初めてで。言い様のない喜びがフツフツと胸の奥で騒ぎ始めていた。
「改めて自己紹介するね!僕の名前はヒュー。僕はユメル街の魔法使いなんだ。けど、僕の魔法は目に見えないし、実体化しない。何を言ってるかわからないかもなんだけど、つまり、えっと、絶対魔法は使えるはずなのに、上手く魔力が込められないんだ。けど、だけど!君の透明な涙から魔力を得ることで、僕の魔法は実体化する!見てて!」
 言うが早いかヒューが空に右手をかざせば、雨がゆっくりと止んでいく。そしてゆるりゆるりと雨雲が動き出し、隙間から光が零れ出した。
 まるで、魔法のようだった。いいや、それは確かに魔法だった。
「お師匠様に言われたんだ。『透明な魔法を使うお前は瓶のようだ』って。『メモリ村の透明な涙こそ、お前を救う』って!ねぇ教えて、君の瓶色は何色なの!」
 はち切れんばかりの笑顔のヒューが、クレアに手を差し出す。反対の手には、先程までクレアが持っていた透明な瓶が太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。
 クレアは大きく息を吸い、ヒューの差し出した手に自分の手を重ねる。

「透明!」

 それは一人の少女と一人の魔法使いの、透明な運命の始まりだった。