ゆっくりと目を開けると、カーテンの隙間からの日差しが眩しくてしょうがなかった。目を擦りながら起き上がり、一階に降りてキッチンで一杯の水を飲む。喉を通る冷たい水は気持ち良くて、しばらく目を瞑って堪能していた。
 それからリビングのカーテンを開けて、洗濯機を回しにいく。回したら今度は昨日干した洗濯物を畳んで、寝室に運ぶ。運んだら今度は冷蔵庫の中身を確認して、今夜の献立を考える。買うものをメモして、それから、……それから。
「……」
 覚めてしまった。夢から、覚めてしまった。現実で目を覚ましてしまった。結局、何も出来なかった。自分が一番になることも、誰かを助けることも。何も。むしろ、もっと悪い方向に進んだ気がする。
 電脳世界なんて嘘みたいな話を信じ込んで、結果このザマ。記憶が残っているからもしかしたらエトワールに?なんて一瞬思ったけど、一人で目覚めた時点でその可能性は薄い。それに、自分がなれるわけもないのによくもまぁそんな呑気な考え出てきたわ、と我ながら思う。
 夢みたいな、でも夢じゃない、けど夢の話。
「みんな、元気にしとるやろか」
 あの世界だけの仲間は、今頃どんな風に苦しんでいるのだろう。想像するだけで悲しくなってくるけど、どうしようもない。
 せめて生き続けてほしいな、とだけは願わせて欲しかった。
 ふわぁ、とあくびをしてリビングのソファに座ればそのまま眠りに誘われる。

 遠い昔の夢を見た。
 プロポーズをされた時の夢。
 王道の夜景の見えるレストランで指輪を差し出された時、多分一生の中の一番の幸せやと思った。
 実際、そうやった。
 結婚生活が始まった途端、何かがおかしいと感じていた。新婚ってもっと楽しいかと思ってたけど、待っていたのは孤独な生活。営業やからって飲み会が多いことは承知していたけど、にしても数が多すぎることに、不満が出てくるのは時間の問題で。
 問い詰めても出てくるのは『仕事』の一点張り。そして諦めかけていた時、ついに証拠を見つけた。
 プロポーズも王道、浮気も王道、ってね。
 彼のスーツから出てきた名刺と、リップクリームと。それからは芋づる式でどんどん出てくる。
 けれどその証拠品を彼に問い詰めることはなかった。
 
 次第に意識が浮上する。目を覚ますともう日が沈み出している事に驚いた。買い物、行かなくちゃ。そう思って携帯に手を伸ばして、一件のメッセージに気づく。
『夕飯今日もいらないでーす』
 その言葉にスタンプで『了解しました』と返事をして、立ち上がった己をもう一度ソファに沈めた。
 今、目を瞑ったら。まだ眠れそうや。もう買い物も今日はいいや。お腹すいたら家にあるもので作ろ。
 携帯でウェブを開き、慣れた動作でいつものサイトを開く。それからいくつかの文に目を通すと、指を動かした。
『辛いですよね。周りが気持ちをわかってくれない状況はとても質問者さんの心を苦しめていると思います。まずはご飯を食べれていることがすごいです。きちんと生きようとしている自分を褒めてあげてください。些細な事で心は溺れてしまいます。苦しい時や逃げ出したい時、まずは一度、大きく深呼吸をしてみてください。どうか、生きる事をやめないで』
 投稿完了のボタンを押して、自分の回答を眺める。
 我ながら今回のは良い出来だ。これはベストアンサー貰えるかな。
 とか何とか思ったりして、また次の文を読む。
 いつからか自分より悩んでいる人を見ることに安心を覚えていた。掲示板に来れば、自分なんかよりもっと辛い境遇にいる人はごまんといる。うちは大きな家もあるし、ご飯も満足に食べれるし、オシャレもできるし、好きな所にもいける。ただそこに旦那がいないだけ。それだけなのだ。
 だから掲示板で悩んでいる人に手を伸ばして、満足感を得ていた。それで満たされる都合の良い自分が、好きだった。
 けど、遠いところからしか何も出来ない自分は、嫌いだった。

 日も完全に沈んだ頃、私はスーパーに買い出しに来ていた。家にあるものでもある程度は作れたけど、なんとなく盛大に料理を作りたくなったのだ。
 今日はパーティー並に色々作ろう。そうして余ったご飯をこれみよがしにテーブルに置いといてやろう。別になんの記念日でもないけど、ちょっとでもなんかあったっけ?って悩んでくれたらそれでいい。
 前菜からスープ、魚に肉に、デザートに。フルコースを想定してカゴに大量に食材を入れ込む。結果、マイバッグには入り切らなくて追加でレジ袋を二枚購入した。帰り道の重さが、なんだか愛おしかった。
 家に帰ったら即料理に取り掛かる。でも、よく分からないんだけど、途中で集中力とかやる気がパッタリと切れてしまった。包丁を置いて、何度か深呼吸する。静かな家に、自分の呼吸と時計の針の音だけが響く。それがとても重く聞こえて顔を顰めた。
 皿の上のサーモンのカルパッチョに手を伸ばす。そのまま行儀悪く、指で一切れつまんで食べる。
 うん、美味しい。
 ベトベトの手はそのままに、オニオンスープを鍋からお玉で掬って飲む。
 めちゃくちゃ熱いけど、美味しい。
 お腹の奥まで温かいものが広がる感覚に、生きている実感を得る。そうだ、生きてたんだなぁ、と他人事のように思った。
 そこからは何かのタガが外れたかのように、素手で色んなものを食べた。作りかけのものも、フルコースの順番なんかも無視して、目につくものをむしゃむしゃと食べた。
 食べて、食べて、食べて、お腹が満たされていけばいくほど、自分が生きていることがわかる気がして、食べ続けた。
 やがてお腹がいっぱいになってぐちゃぐちゃに汚れた辺りで、そのままキッチンに座り込む。
 座り込んでから、ようやく自分は自分で気づかないうちに奥底まで来てしまったのだと気づいた。大丈夫だと毎日言い聞かせているうちに、悲しいや苦しいのメーターが麻痺していたのだろう。一気にやってきたそれらの感情は、今までを壊すのにはあまりにも充分だった。
 こてん、と食器棚に頭を預けたら、その硬さに頭がじんじんと痛む。床に手を着いたら、ベトベトな事を忘れていて床まで汚れてしまった。
 もうなんでもええか。
 このまま寝てしまったら、目が覚めないなんて夢みたいなこと起きへんかな。

 ピンポーン。

 家のチャイムが鳴る。
 嫌やわ。あの人、ついに鍵でも無くしたんやろか。だったらもう入ってこんでええよ。このまま一人、眠らせて。