「なんで起きないの!起きて!起きて!起きて!起きて!」
悲鳴に近い叫び声で目が覚める。時刻は朝の八時前。
「起きた、起きたから……」
「学校は!?新聞配達は!?あんたが働いてくれないと我が家はどうなっちゃうのよ!」
「……。今日は学校は創立記念日で休み。昼から夜までファミレスって言ったじゃん」
ボサボサの頭に、くたくたの服。よれよれの顔は見ているだけで悲しくなってくる。
縋ってくる相手を押しやって、私はリビングに行った。それから干してた服をハンガーから取って着替える。シワの寄った服はさながら奴隷のようで、布の冷たさにきつく唇を噛んだ。
「あぁ……ごめんね、おはよう、機嫌はどう?」
さっきみたいなヒステリックな女から一転、でろでろな甘やかした声が後ろから聞こえる。振り向けば、赤子を嬉しそうに抱いている母親の姿がそこにはあった。確かに、それは母親の姿をしていた。
戸籍上は、私の母。目の前にいるのは、ただの同居してる子連れの女。その赤子は、私とどこまで血が繋がってるのか。
わからないし、わかりたくもない。
それから台所で適当に朝ご飯を作る。賞味期限切れのベーコン二枚と、卵を一個。フライパンで焼けば、あっという間に火が通ってベーコンエッグの出来上がり。それを真ん中から切れば、どろりと黄身が溢れ出した。二つの皿に半分ずつ乗せて、片方だけをリビングに運ぶ。一緒に持ってきた箸と共にちゃぶ台に置けば、母はじとりとした目で私を見た。その視線に気づかないフリをして台所に戻り、水切りカゴの中のフォークを手に取ってベーコンエッグを食べる。
ベーコンって肉だけど、賞味期限五日くらいなら楽勝で食べれるな。火、通ってるし。
そんな事を思いながらあっという間に完食して、靴下を履いて、玄関で靴を履いた。いつ買ったかもう思い出せないボロボロのスニーカーには、ついに爪先に小さな穴が空いている。でもまだ履けるから別に構わない。
「ミルク作ろうね〜、いい子で待っててね〜」
家から出た時、甘ったるい声が後ろで聞こえた気がした。
「いらっしゃいませ〜」
朝から昼まで何をしてたかあんまり覚えてない。やる事がなくてぼんやり街を歩いてたような気がする。気づいたらもう私はウェイトレスの格好をして働いていた。可愛らしいデザインのこの服は、一体いくらぐらいで作られてるんだろう。……関係ないか。
「一名様ご案内で〜す」
夕方ということもあり高校生の客が増えてくる。段々と忙しくなっていく店内に、私は馴染めているのかな。
時折私は自分という存在があやふやになるのを感じていた。何の為に生きているのか、わからなくなるのだ。
どうしてバイトしてるのかも、どうして家があるのかも、わからない。何より自分自身の生きる理由が、わからない。わかりたくもない。わかろうとしていない、だけ?
「いや〜、東雲ちゃんがシフト入ってると楽で助かるわ〜」
店長、と書いているネームプレートをつけたおじさんが笑う。対して私は「あはは」と笑い返すのみ。ピンポンとベルが鳴り、私は早々にホールに向かった。
「お待たせいたしました」
ハンディーターミナルを開き、メニューボタンに手を添える。染み付いた自分の動きにふと気づいて、なんかすごい嫌な気持ちになった。
「ご注文お伺いします」
「あ、あの……」
「はい」
「どうやって頼めば、いいんですか……?」
「……はい?」
一瞬問われた意味を理解できなくて、ポカンとしてしまった。客はさっき三番テーブルに案内した高校生だ。まさか高校生がファミレス初めてなんて、ありえるの?
「えっと、何が、オススメですか……?」
「おすすめ……。あ、オススメでしたら、今季節限定のメニューがありますよ。こちらの煮込みハンバーグです。寒い季節にピッタリのメニューとなっております」
さっきのは聞き間違いというか、間違えた解釈をしちゃったのかもしれない。普通にオススメを聞きたかったんなら最初からそう言ってくれ。紛らわしい。
バイト中は極力思考を使いたくないから、イレギュラーな事が大嫌いだ。だから目の前の高校生に、心の中で舌打ちする。
「煮込みハンバーグ……。じゃあ、それで……」
「セットはつけますか?」
「セット?」
「Aセット、Bセットとございますが」
「なんですかそれ……」
普通にもう驚いた。勘違いじゃなかった。こんな人間このご時世にいたのか。どんな箱入り娘なんだ。いや、箱入り娘なら一人でファミレスになんか来ないか。だとしたら、今までファミレスに来れなかった……、……貧乏なのかな。
いつの間にか動いていた思考が弾き出した答えに、思わず伸びていた背筋が少し緩む。
「Aセットですとライスとスープがついてきます。Bセットですとパンとサラダです」
「……Aセットで」
「ドリンクバーはお付けになりますか?」
「……えっと」
「ドリンクバーを付けると、あちらのドリンクカウンターのお飲み物が飲み放題になります」
「じゃあ、それも……」
「かしこまりました。注文は以上でよろしいですか?」
「はい」
「では注文繰り返します。季節の煮込みハンバーグ、Aセット、ドリンクバー付き。ドリンクバーはあちらの……」
定型文をつらつらと述べてからドリンクバーの説明を懇切丁寧にしてやると、高校生は嬉しそうに笑ってお礼を言った。それからデシャップに戻ると、店長がニヤニヤとこちらを見ていて。
「丁寧な接客、他のバイトにも見習ってもらいたいねぇ〜」
そうですか。と言いたい気持ちを抑えて「あはは」ととりあえず笑う。これは相手にするだけ無駄だと学んでいるから、また早々に私はホールに向かった。
私が学んでいくのは学業とは違うことばかり。皿を下げる時は当たり前だけど大きいものから下に、とか、テーブルを拭く時の効率の良いやり方とか、店長の話は笑って受け流すとか、そういうの。これはこれで生きていく術なんだろうけど私だって本来高校生だ。友達とファミレスでドリンクバーだけ頼んでグダグダトークとかしてみたい。
私にだって、大なり小なり夢はある。
「お疲れ様です、お先です」
帰路。さっきまで雨が降っていたのか、地面に水たまりが出来ている。バイト先から出た瞬間の勢いで思わず踏んじゃって、スニーカーの穴の空いた部分からじんわりと濡れていくのがわかった。
嫌だなぁ、本当に。何もかもが、嫌だ。この濡れた足も、帰り道も、自分自身も、全部全部。
「……帰りたくないなぁ」
思わず零れ落ちた言葉は、すとんとコンクリートに落ちて割れる。次第に緩やかになっていた足取りは気付いたら止まっていた。自分でもどうしたらいいのかわからなくて、その場にしゃがみこむ。こんな時でもお腹はすくみたいで、小さく腹の虫が鳴いた。
家に帰ってもあるのは冷凍食品かインスタントラーメン。それか、あの女の食べ残し。救われない自分に、嫌気がさす。そのまま目を瞑ると、なんとなくここじゃないどこかの景色を思い出した。
空が綺麗で、小鳥が鳴いていて。たくさんの声が飛び交っていて。笑顔が、あって。
それはいつか見た夢の景色なのかもしれない。それか、私の想像する楽園なのかもしれない。
わからない。もう何も、わからない。
「わかりたくもない。じゃなくて、知りたくても知ることが出来ない……ってわけね」
このまま目を瞑っていたら何か変わるだろうか。もしかしたら異世界に転生して楽しい生活になったりしないだろうか。
夢見すぎだろうか。
「あの……」
その時、頭上から声が聞こえた。