いつも保健室にいる君に、俺はこっそりと『シトラスの君』と名付けた。
夏が、まだ始まったばかりの頃だった。
理由としては簡単で、よく教室ですれ違うと柑橘のような香りがしたからだ。なんとなく本人に聞いてみたら、シトラスの何かをつけているのだと答えてくれた。
家に帰ってからシトラスを調べたけど、だからなんだって感じで、でも名前はオシャレだから気に入った。そして、『シトラスの君』だ。
シトラスの君は、別に体が弱いわけでもないのに、よく保健室にいた。それから、なぜかいつも窓からこっちを見ていた。最初は俺に気があるんじゃ……?とか自惚れてたけど、よくよく観察したら、俺じゃなくサッカーを見ているのだとわかった。
俺が入部しているサッカー部は、お世辞にも強いとは言えない。けど、曲がりなりにもそこでエースとして頑張らせてもらってる身としては、張り切らなきゃいけない事案だ。
俺じゃなく、サッカーが好きなんだろうな。
「今日、女子何やんの?」
体育の授業前、シトラスの君もグラウンドで三角コーンを並べてたから、それとなく話しかけてみた。夏休みが明けてからというものの、シトラスの君はなんか雰囲気が変わった気がして、俺の知らない奴みたいで、いけ好かなかった。
「ソフトボール」
「ほーん」
「男子は?」
「サッカー」
「えー、いいなぁ〜」
その言葉を区切りに、お互い別々の所まで三角コーンを運んでいく。サッカーを好きな所は変わってないみたいで、ちょっと安心した。
じゃあ何が変わったんだって聞かれると、困るんだけど。強いて言うなら、ちょっと大人になったっていうかさ。いや、変な意味は無いよ。断じてない。……多分。
「なぁ、夏休みに彼氏でも出来た?」
変な意味は断じてないけど、気にはなるから、ここはストレートに聞いてみる事にした。ライン引きを置いたシトラスの君が、豪快に笑う。
「何?あんたアタシの事好きなの?」
「はーーーー?んなわけないっしょ自惚れんな」
まぁ自惚れてたのは俺の方ですが。
「あっそ。……彼氏とか出来てないし、夏休みは生徒会で忙しかったんで」
「ほーん」
生徒会、か。よくやるよなぁ。
それから学祭でうちのクラスは『シンデレラ』を体育館のステージでやることになった。正直劇とか恥ずかしい以外ないし、俺は裏方で手伝ってる感出して後は楽しむか〜なんて思ってた。そしたら王子様役に推薦されて、何の罰ゲームだよ!って怒ってやろうとしたら、シンデレラ役にはシトラスの君が推薦されてるもんだから、思わず何も言えなくなって。
これが本当の、役得ってやつなんだろか。
「美しい姫、私と踊って頂けますか?」
「喜んで」
練習の度に、仄かに香るシトラスがちらついてしょうがない。こんな過剰摂取したら死んじゃうんじゃないかとか思ったけど、風邪ひとつひかずに俺は今日も生きている。
本番が近づくにつれ元気のなくなっていくシトラスの君。何が原因かはわかんないけど、俺じゃないといいな。いや、俺以外でもよろしくないな。
「なぁなぁシンデレラさんよ」
「……」
「無視かよ。まぁいいけどさ〜」
本番前日。思い詰めた顔をしていたシトラスの君がふらっとどこかに行ったかと思ったら、この世の終わりみたいな顔で帰ってきた。こんな顔で明日ステージに立たれたら、俺が困る。色んな意味で。だからケア?してみようと話しかけてみたんだけど、どうにも反応がない。
これは、俺の出る幕じゃないのかもしれないなぁ。
とか、シトラスの香りを感じながら思った。
それから本番当日。朝会ったシトラスの君は、ほんの少しだけ吹っ切れたような顔をしていた。元々サバサバしてるイメージがあったし、そっちの方が似合ってる顔だなぁとかぼんやり思いながら、いつも通り「おはよう」と挨拶を心の中でした。
「あなただったのですね。私と結婚して頂けませんか?」
「えぇ、喜んで!」
ステージ上でシトラスの君と手を取り笑う。その後に「こうしてシンデレラと王子は幸せに暮らしましたとさ」なんてナレーションが入り、ゆっくりと幕が下りる。ほんと、このまま幸せに暮らせるエンドが現実であればいいんだけど、そんな夢物語は現実にない。幕が下りるなりどこかへ走り出したシトラスの君を見て、俺はニヤニヤと笑うフリをするしかないのだ。他の男子と、告白でもしにいったんじゃねぇーのかって話して笑い。女子に、さっさと撤収作業手伝ってって怒られ。
そうする事しか、出来ないのだ。
夕方になって、俺は「ちょっと抜けるわ」ってつるんでた奴らに告げて一人になった。そのまま保健室に向かう。実は、さっきシトラスの君が大胆にもシンデレラ姿で校内を走るのを見ていたのだ。なんとなくここじゃないかって、保健室に入ってみたら、本当にいるもんだから俺ってすごい。
夕日をめいっぱいに受けてベンチソファーに座るシトラスの君の後ろ姿は、まるで絵画のようで。近寄るにはあまりにも勇気がいるから、俺は保健室の先生がいつも座ってる椅子に座った。その時に音が鳴ったけど、シトラスの君は振り向かない。
そういや夕日の色って、茜色ってよく表現するよなぁ。
「なぁシンデレラさん」
「……」
「ガラスの靴と、ティッシュ、どっちが欲しい?」
「…………どっちも」
「ワガママプリンセスじゃん」
笑いながら、机の上の箱ティッシュを手に取り立ち上がる。それからゆっくり近づいて後ろから差し出したら、鼻をすすりながら「ありがと」とシトラスの君は箱ごと受け取った。手持ち無沙汰になった俺は、また音を鳴らして椅子に座る。
そのまま、ゆっくり時間が過ぎていく。魔法が解けてしまうまで、あとどれくらいの猶予があるんだろう。
「好きだったんだ」
急に聞こえた言葉に、鼓動が早くなり。
「サッカー」
その後に続いた言葉に、伸ばした背を丸めて。
「好きだったんだけど、さぁ……。もう、ダメなんだよね……」
ただただ、俺は耳を澄ませる、
「ずっとずっと好きだったんだけど、ダメってわかってて……。次第に、好きって言っちゃいけないとまで思ってた。でも見れば見るほどやっぱり好きで、ちゃんと言わなきゃ、後悔するって思って、だから……」
ケジメつけてきた。
そう言い終えたあと、シトラスの君はやっとこっちを振り向いたかと思えば笑った。流石の俺でも話の流れがわかって黙って聞いてたのに、告白してきた事をケジメつけてきたって言う辺り、なんか、いい。それに、サッカーも好きなんだろうなってちゃんと確認できたから、尚更いい。
シトラス、最高だよ。
「スッキリした!」
「そりゃよかった」
「……うん」
俺にはシトラスの君の事、何一つわからない。何言ってるのかも誰に告ったのかも何も知らない。正直シトラスは柑橘類って調べたけどその柑橘類の何の果物かとかも知らない。それでもさ。
一応これでも、結構その匂い気に入ってんだ、俺。
「まぁ……その……ケジメつけてきたらしいけどさ。別にだからと言って今日で好きじゃなくなるわけじゃないっしょ。これからも好きでいいじゃん」
「え……?」
「サッカー。別にこれからも好きでいいじゃん」
「あぁ……」
「俺も好きだし」
「エースだもんね」
「将来有望株かもよ」
『文化祭のお知らせです。まもなく、表彰式が行われます。全校生徒は体育館に集合してください。繰り返します』
校内アナウンスが流れて、シトラスの君が立ち上がる。持っていた箱ティッシュを机に置くと、俺に向かって手の平を出した。
「ガラスの靴は?」
「はー?」
「さっき、どっちも欲しいって言ったでしょ?」
「うっわ、ワガママプリンセス再来じゃん」
「何、さっきからそのダサいネーミング」
「いやいや、そのまんまの意味。あ、もしかして『美しい姫、私と踊って頂けますか?』」
「却下」
「んだよ〜」
差し出された手の平に軽くグーパンをお見舞いしたら、シトラスの君はケラケラ笑いながら保健室のドアに向かう。
それでいいよ。そうやって笑ってればいい。今この空間に「こうしてシンデレラと王子は幸せに暮らしましたとさ」なんてナレーションは残念ながら流れないけど。
別に俺は、シトラスの君に好きだなんて一回も思った事ないから。俺が好きなのは、シトラスの香りだから。
「好きだよ、シトラス」
俺はこっそりと呟いた。
夏が、もうすぐ終わる頃だった。