私立星煌女子學園。その校舎の屋根の上で、一人の女性が座って空を見ていた。夕暮れは現実のものではないとわかっていても綺麗で、肩の力が抜ける。そしてゆっくりと息を吐くと、彼女はこめかみに指を添えた。
「……いるなら、姿を現しては?」
 誰もいないはずの隣を見つめ、小さく話しかける。すると不思議なことにふわりと人の形が浮かび上がり、そのまま女性の隣に座った。
「しりとりしません?イヌビワ先生」
「拒否します」
「す、するめ」
「拒否」
「ひ、ひもの」
「しません」
「はい、イヌビワ先生の負け〜おつぽんぬ〜」
「……」
 イヌビワはもう一度こめかみに指を添える。そのまま眉間に皺を寄せ、一度大きな溜め息を吐くと、視線を夕暮れにもっていった。燃えるような赤とオレンジ。いっそこの世界が燃えてしまえばいい、隣にいるこの人ごと。なんて思うと痛快で、少し笑みが零れる。
「イヌビワ先生、お疲れな感じ?」
 軽い声がさらりと聞こえて。その声を受け止めればなんとなく目を瞑りたくなって、そうした。瞼で蓋をしても夕暮れは届くものだから、人の体は面白い。
「お陰様で」
 そう答えると、ケラケラと笑われる。誰のせいでこんな事になってるんだと問い詰めたくもなったが、やめた。
「イヌビワ先生も疲れるんですなぁ」
「……学園長、解析は進んでるんですか」
 学園長と呼ばれた人物が、夕暮れに向かって手を伸ばす。オレンジに染まった手を見ては、子供のように何度もくるりと動かして、手の甲、手の平、と楽しそうに観察をしていた。
「もちろん。学園長ですし」
「では……」
 その先は、言葉にならなかった。上手い言葉が思いつかなかったといえばそうだし、思いつきたくなかったといえば、きっとそう。
 イヌビワはこの世界の教師だ。だからこそ、言えることと言えないことがある。それが例え一人の人間だと認められていたとしても、それ以前に彼女は誇り高き一人の教師でいたかった。
「やっぱり予想通りでしたよ〜」
 学園長が、手を戻しながらさらりと言う。イヌビワは少しだけ眉を顰めると、気付かれないように息を少し吐いた。
「……どうして、彼女は自殺をしたんでしょうか」
 そうして問えば、学園長は夕暮れを見たまま眩しそうに目を細める。
「彼女は、殺されたんだ」
「殺された?……手伝った生徒に、ですか?」
「いいや、違います。ナイトレイドですよ」
「ナイトレイド……」
「夜に殺されたんです。闇に、殺された」
 イヌビワは学園長の話す事がイマイチ理解出来ず、少しの苛立ちを見せる。
「意味がわかりません。もっとわかりやすく説明願います」
「イヌビワ先生は真面目なんだから〜。……まぁ、なんというか、そうですねぇ。いなくなったカノンさんがそう言ってたから自分もそう呼ばせてもらってるんですけど。自分が思うに、世の中に自殺なんてものはないと思うんですよ」
 学園長が透き通った目でイヌビワを見る。その目は夕暮れを抱き締めたような色で、イヌビワは心が揺らいだ。
 こんな綺麗な目をしているのに、この人の話が理解できないのはどうしてだろう。綺麗ということだけはわかるのに、どうして、奥まで分かり合えないのだろう。こうして私達は二人で言葉を使ってコミニュケーションを取っているのに。
「必ず、何かに殺されたんです。例えば、誰かに。例えば、社会に。環境に。世界に。死ぬ瞬間が自分のタイミングになっただけで、ね」
「……イマイチ話がわかりません。ということは、彼女も何かに殺されたと?」
「う〜ん、彼女の場合もそうですね。少し特殊ですが、幸せだったんではないでしょうか」
「はい?」
 耳を疑う言葉が聞こえて、イヌビワは思わず聞き返した。幸せ、とは。
「彼女は、ちゃんと幸せになれたと思いますよ。ちゃあんと、エトワールだった」
 だから、約束された未来を用意したんです。
 イヌビワは頭が痛くなった。大きなため息を吐いて正面を向く。これ以上学園長の顔を見ていたら、どうにかなってしまう気がしたのだ。
「彼女にとっての約束された未来が、今だと?」
「えぇ。Dの四班はきっと、エトワールになる為に全力でもがいてくれますよ〜」
「……ハナビさんは、関係あるのですか?」
「う〜ん、ハナビちゃんはちょっと特殊というか……」
「転入タイミングといい、流石に妙でしょう」
「やっぱり説明ないと困るよねぇ」
「はい」
「ハナビちゃんは、本来呼んでないんですよ〜。だからこっちとしても色々と困るというか」
「はい?」
 またもや耳を疑う言葉が聞こえてきて、イヌビワは学園長の方を見る。学園長はポリポリと自分の頬を搔くと、その視線から逃れるように上を向いた。
「あ〜〜〜。だるだるですね〜。正直自分にとっても予想外のことが起きてたりするんで……。まぁその、多分大丈夫だとは思うんですけど、もうちょいシステムの強化やら何やらしないとな……」
「どうぞ存分に頑張ってください」
「うぇ〜。イヌビワ先生他人事〜」
「他人事も何も、私には何が何だかさっぱりですから。余分なことは考えず、生徒たちを導くことに徹底するのみです」
「はわぁ」
 イヌビワは、先程学園長がやっていたように、夕暮れに向かって手を伸ばした。そのままくるりと何度か動かしてみる。そして思う。たとえ仮初の、現実ではない姿で、世界だとしても、やはり綺麗なものは綺麗だと。
「やっぱイヌビワ先生に頼んでよかったです」
 隣から、さらりと軽い声が聞こえる。その声を、しっかりと受け止める。
「イヌビワ先生は、どれだけ負の感情や死に触れても、自分を見失うことなく責務を全うできる。負のエネルギーに引っ張られることない強さは、唯一無二だ」
「どうも」
「その強さはどうして?」
「どうして、とは?」
「そんな強いメンタルの人間、なかなかいないからさ」
「あなたも大概でしょう」
「まぁ、自分はこの世界の創造主なんで?」
「……」
「スルースキルも強いですよね、イヌビワ先生は」
 ケラケラと笑う学園長を見て、イヌビワは少しだけ表情を緩める。
 この世界にあるのは全てまやかしだ。見た目も声も名前も、電脳世界で作られたもの。ただ現実世界と変わらない唯一といえば、感情なんだろうと思う。どれだけ見た目を偽ったって、心まで偽れる人間はここにはやってこない。可哀想なほど弱い人間だけが、生徒になれる。そしてイヌビワは、そんな弱い人間を星に導く存在。
「んじゃ、ぼちぼち自分はログアウトしますかね〜」
 もしそんなイヌビワを強い人間だと称するなら、それはブレることのない芯があるからなのだろう。綺麗なものを綺麗だとはっきり言える、心。
「学園長」
 よいしょと立ち上がった学園長を見上げると、柔らかな風が二人を撫でる。
「なんですか?イヌビワ先生」
「私は必ず生徒たちを、皆、星に導いてみせます」
「ほう」
「それが私の、この世界での役割でしょう?」
「ふ〜む、そうですね。模範解答です」
 学園長が少ししゃがんで、イヌビワと目線を合わせる。
「ですがお忘れなく。ここは、悲劇を作る学園ではありません。それは、あなたも含まれますよ。あまり根を詰めず、楽しんでください」
「……はい」
「眉間にシワ、寄ってますよ〜」
「……はい」
 上手く表情を作れないイヌビワに対し、あははと笑う学園長。それを見たイヌビワが更に顔を顰めると、学園長はポンポンとイヌビワの頭を軽く叩いて、姿勢を正した。
「さてさて、夜が来ますね。本当にログアウトしますけど、何かあればどうぞ呼んでください。ではではおつぽんぬ〜」
 ふわりと学園長がその場から姿を消す。イヌビワはいなくなってからもしばらく隣を見つめた。それから息を吐きながら、前を向く。学園長の言った通り、夕暮れはいつの間にか夜へと姿を変えようとしていた。
 すると、イヌビワのこめかみ辺りがチリリと小さく痛む。それに顔を歪めながら指を添えれば「風邪引かないようにね、イヌビワくん」と脳内で学園長の声が聞こえた。余計なお世話だと鼻で笑って、ぼんやりと目の前の景色を見つめる。
 夜。彼女達はどんな想いで眠りにつくんだろうか。夢の中で、どんな夢を見るのだろうか。
「せめて、夢の中の夢では、幸せなものを」
 そう願うことくらいは、許されるだろうか。きっと死にたくて生まれてきた人間なんていない。だからこそ、知って欲しいのだ。生きる楽しみを。苦しみだけを味わってしまっては、しんどいに決まっている。人生幸せだけで構築出来ないことはわかっていても、それでも、きっといつか、幸せがたくさん訪れてほしいなと、エゴでもいいから思う。
「おやすみ、羊たち」
 イヌビワは柔らかくそう呟き、ゆっくり目を瞑った。瞼の先では、キラキラと星が輝いていた。